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『生きている土壌』, pp.65-67
土壌と腐植は、有機体として、きわだった配列原理の上に立つ単位を形づくっており、私たち人間が破壊したり、手を加えたりしてはならないものだ。
この土壌─腐植というつながりの中にあって、人間は全体の中の一部として運命的に組み込まれている。‥‥‥
40年以上も前のことだが、ルッシュは、エネルギー保存の法則という周知のものの論理的帰結として、「生きているものの保存」の法則を想定した。
このことを考える中で、いわゆる「生理的細菌」が,生命力ある土壌および人間を含めたあらゆる生物との間の、生命力あるものと遺伝物質の特殊な媒介者であることも明らかにした。
それと共に、当時まだ初期段階だった有機農業が、最初の自然科学的な正当化を得たのである。
つまり、すでに当時、まさに確かな本能によって、自然に育ち、人工的に追いあげたりせず、有害物質に汚染されない野菜や果物がもつ癒す力を認め、熟慮の末、多くの農民が農芸化学者の指示に従うことなく、自分たちの食べ物として農作物の栽培をしたのである。
進化の発展の最高の段階にある人間が一番危険にさらされている。
というのは、莫大な量の介成された異物と毒物を摂取することで、人間にとって申し分のない価値があり、完全な生命力ある食物連鎖からますます遠ざかっているからである。‥‥‥
人間や家畜に、しばしば隠された形ではあるが、今まで見たことのないような病気、抵抗力のなさ、無力な状態が現れるだろう。
もしも人が折あるごとに、有機農業を営む農場を訪ねるなら、その農地、育っている植物、家畜、そして農家の家族の健康さに気づき、深い印象を受けることになるだろう。
それは疑いもなく生命力あるものが持つ癒す力である。
何であれ、持続的な癒す力は、生命という原理抜きには存在できない。
道を誤った自然科学がそのことを反省し、誤った教育を受けた人間を正しくし、自然に即した考えに立ち戻らせ、生命力の大きな役割を認識するようになることは、正に至高の時である。
ところで、「打ち倒そうとしておられる人々を、主は盲目によってこらしめられる」とはどういうことなのだろう。‥‥‥
人間と環境が急速に悪化しているときにも、自分自身は変化していないと考えるなら、それはひどい思い違いである。
すべてのものを思うがままに変化させることができる世界からのしっぺ返しにはほとんど気がついていないのだ。
ごく少数の研究者たちは、環境の破壊が人間の精神の健康に与える作用に気付いている。
ひそかに広がっている毒物によって人間の精神と心が損傷を受けていることは、もはや見逃すことができなくなっている!
集中力の低下、抑欝、攻撃性ばかりでなく、精神を病む人々の増加も、それによって説明される。
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「不耕起栽培」は,イデオロギーの気味がある。
イデオロギーとは,自分を正義とし,自分の敵を貶めるために事実捏造に行ってしまうものである。
正義を装うものに「有機農業」があるが,こちらは商法である。
消費者の正義感を利用して,顧客を獲得しようとする。
「不耕起栽培」は,商法ではない。
「エコ」イデオロギーの一つである。
商法は「敵」を用いるが,それは打倒しようするものではない。
商法が「敵」を用いるのは,自分をよく見せるためである。
一方,イデオロギーにとって,敵は打倒せねばならないものである。
敵は世界を破滅させるものであるから,これを打倒して世界を救わねばならない。
打倒せねばならない敵に対しては,打倒の方法は何でもありになる。
こうして,デマゴギーがイデオロギーの常套になる。
デマゴギーは,科学の敵である。
よって,イデオロギーは科学の敵になる。
イデオロギーは,信仰である。
信仰は,信仰の対象を分析しない。
まるまんま信じる。
イデオロギーが厄介なのは,自分が用いるデマゴギーを,さほど (あるいは,少しも) デマゴギーと思っていないことである。
このイデオロギーとは,議論できない。
イデオロギーが科学の敵になるといっても,科学のイデオロギーへの対応は,科学の内側で淡々と科学的知見を並べるだけである。
それは,イデオロギーに向けているのではなく,イデオロギーに洗脳されそうなひとに向けているのである。
実際,ひとは正義が好きなので,簡単にイデオロギーに洗脳される。
昔,「エコ」イデオロギーが「酸性雨」デマゴギーを使ったときがあった。
マスコミはこれに真っ先に嵌まり,そして酸性雨の脅威を煽った。
この結果,ひとがすっかり「酸性雨」に洗脳された。
木の立ち枯れを見つけるや,みな酸性雨のせいにしたのである。
いまはサイエンスの時代かも知れぬが,ひとの頭脳は原始のアニミズムの時代と変わってはいない。
DNA は地質学的時間オーダーのものであるから,千年,万年ごときでひとの頭脳が変わるわけがないのである。
ひとは,正義のキャッチーなフレーズに簡単に騙される。
「不耕起栽培」は,「腐植」を正義にするイデオロギーである。
これは,「腐植」の怪しげな論をつくる。
そして耕起栽培を悪にするために,「土壌劣化」の怪しげな論をつくる。
科学は,この怪しげな論をチェックする役回りになる。
イデオロギーが怪しげな論をつくる科学分野は,科学が弱い分野である。
イデオロギーは,科学の弱いところに付け入るのである。
「腐植」は,まさに科学の弱いところである。
「腐植」が難題なのは,無数の微生物の多種多様な営みがこれの内容になってくるからである。
- 引用文献
- Erhard Hennig : Geheimnisse der fruchtbaren Böden。
Organischer-Landbau Verlag Kurt Walter Lau, 1994.
中村英司[訳]『生きている土壌』, 日本有機農業研究会, 2009.
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