Up 「教育情報システム」が「マザー」になる日 作成: 2007-02-11
更新: 2007-02-11


    システムと適切に関わるには,思想が要る。

    システムが立ち上がる場に居合わせる機会を持てた者は,システムに対して (「いかに」の前に)「なに・なぜ」を自ずと問うことになるので,思想を形成することになる。
    一方,既存のシステムと関わる場合は,「いかに」が先行し,思想形成の契機が持たれにくい。 そして,思想のないままにシステムの管理・運営の立場につくとき,既存システムの絶対主義に進む。

    昔の未来小説がコンピュータをテーマにする場合,コンピュータによる人間支配が一つの類型になっていた。 コンピュータが人の「マザー」になって,生き方を指導する。逸脱を罰する。

    これは,悲観主義か楽観主義かといった問題ではなく,端的に<論理的真理>である。


    情報システム/アプリケーションには,「多様性」というパラダイムがない。 せいぜい「カスタマイズ」のレベルであり,そしてそれは人や組織の圧倒的な「多様性」の前には,「画一化」の一つでしかない。
    「多様性」のパラダイムがないのは,「多様性」をシステム/アプリケーションに盛り込む能力も技術も持たれていないからである。 これは,人間 (生き物/自然/社会) の圧倒的な「多様性」を理由とする。 ──能力ないし技術の未熟という問題ではない。はなから程度/桁が違うのだ。

    情報システム/アプリケーションは「画一化」の方法によって,仕事を効率化する。 裏返せば,人は効率化を得るために画一化を自ら引き受ける。
    このようなシステム/アプリケーションでは,「画一化からの逸脱者の存在」が,目的としている効率化の最も大きな阻害要因になるばかりでなく,システム/アプリケーションそのものを無用化するものになる。
    そのため「画一化からの逸脱」は,本来人間の多様性の現れであって尊重すべきものなのだが,この組織では「犯罪行為」になる。

    「画一化からの逸脱」が「犯罪行為」になる組織は,どうなっていくか?
    情報システム/アプリケーションが人の「マザー」になって,生き方を指導する。逸脱を罰する。


    事例を示そう。
    つぎは,北海道教育大学第16回運営会議報告からの引用:
      「教育情報システム‥‥[略]‥‥ なお,昨年8月に締切った過年度成績に関して依然として提出のない教員がおり,著しい業務の停滞を招いている。当該教員の速やかなる対応を要請したい。」

    「著しい業務の停滞」はたぶん本当であり,「当該教員の速やかなる対応を要請したい」気持も本当である。 情報システム/アプリケーションを使えばこうなる
    ここでの問題は,<思想>である。
    <思想>を欠いたシステム/アプリケーションの管理・運用は,システム/アプリケーションへの従属,すなわちシステム/アプリケーションの「マザー」化に進む。


    わたしは自分自身教育アプリケーションを開発するものなのでよくわかるのだが,情報システム/アプリケーションの課題/問題点は「多様性」をどうやって汲んでいくかである。「多様性」は,システム/アプリケーションにとっては扱いの厄介なものだが,組織の<生命>にとって最も重要なものだ。
    情報システム/アプリケーションは,「多様性」の前には,みなとんでもなくチープである。 このことをよくよく理解する必要がある。

      わたしのことを例に出せば,わたしの授業はだいたいが「教育情報システム」には乗らない。 授業では,受講生の「多様性」のデコボコが出る。この多様性のデコボコを「評価」へと調整するために,「教育情報システム」では「やってはならない」ということになっている従来型の「保留」をやっており,そして「不定期授業」の項目を流用してこれを行っている。 (ただしこれも,前期から後期にまたがってはできるが,年度をまたがってはできない。)
      また,こんな問題も: 履修の途中撤退は,教育的に成績「不可」とは一致しないが,「教育情報システム」では「不可」になる。

      教育とシステム/アプリケーションの関係はこのようなものであり,それ以上のものではない。 前者は多様化に進み,後者は画一化に進む。 本質的なところで折り合いはつかない。
      そこで,肝心なのは<使う者の知恵>ということになる。 そして,この知恵が現れるためには,その前に思想がなければならないというわけだ。