Up 「Justice」という方法の意味
──大学経営に対する批判装置の国立大学的な形──
作成: 2007-07-31
更新: 2007-07-31


    企業では,社員が社内のマシンを Web サーバにして,Web で外から見える形で経営陣の批判をする,ということはない。
    なぜか?
    経営者と社員は雇用者と被雇用者の関係にあり,「雇われる=経営者が決める仕事を引き受ける」となる。 経営者のやり方に社員が批判を表すということは,論理的に成り立たない。 ──実際,そのような行為は,「内部からの営業妨害」か「内部告発」ということになる。

    • 「内部からの営業妨害」に対しては,経営者は解雇で応じる。
    • 「内部告発」は,「密告」のような形になる。 ──これではまずいというので,「内部告発」を保護する法律として公益通報者保護法がつくられたが,「内部告発」という暗いイメージの位置づけのままである以上,この法律は実効しそうもない。


    justice は,一見「社員が社内のマシンを Web サーバにして,Web で外から見える形で経営陣の批判をする」──「営業妨害」「内部告発」──のように見えることをしている。
    これはどういうことか?

    「<法人化>の国立大学で教員として在る」ということは,「大学執行部に対し或るスタンスをとる教員として在る」と同じになる。
    スタンスの分かれ目は,国立大学法人の「企業」的側面を見るか「国立」を見るかである。

    国立大学の「法人化」を営利企業化と受けとめれば,「教員=社員」になる。
    「国立」の意味に立ち返って営利企業化を退ければ,「教員=公僕」になる。

    「教員=公僕」では,執行部の大学経営のやり方を,国民の利益の観点から,批判の対象にする。
    そして,批判が実効するための最適な形を考え,実現しようとする。
    justice の方法──「Web を用いて批判を公表する」──は,この立場から出てくる。


    justice の本質は,「公表」である。
    なぜ「公表」か?
    国立大学の中の出来事を,国立大学の中に閉じ込めさせないためである。
    なぜ「閉じ込め」はダメなのか?
    「小人閑居として不善をなす」になるからだ。

    法人化以後の国立大学では,生き残り競争としてなりふりかまわずをすることが良しとされるようになった。 経済主義にシフトして,目先のしのぎのために国立大学としての一線を越える。
    彼等には,<信用>のような無形物はタダに見える。 そしてそれを損なうことをする。
    国立大学を成り立たせている各種無形物は,たいへんなコストを投入して築かれてきた。 しかし,このコストが見えず,無形物はタダだと思っている者は,いともかんたんにこれを損なう。

    国立大学の破壊がこのように進行している。
    少数の独善が,莫大な国民的損失をもたらす。
    (歴史に繰り返し現れる形!)

    そこで,「公表」──国立大学の問題の国民的共有──が,国立大学を破壊から守る方法になる。
    justice は,この方法を具体的な形にした。