Up 国立大学の本分と「自由」 作成: 2008-02-21
更新: 2008-02-21


    「探求」は,「食客」とか「三年寝太郎」とか「梁山泊」のような風情で可能になるもののようだ。
    「探求」には,パトロンが要る。
    そして近代は,国がパトロンになり,「国立大学」の形で「梁山泊」を与えてやる。

    「国立大学」は「梁山泊」である。
    中国宋の時代の梁山泊はアウトローの巣窟だが,国立大学の場合は「アウトロー(超法規)」とは言わないで「自由」と言う。
    「自由」の意味は「超・既成」であり,「超法規・超規範」も含意されている。

    なぜ「超・既成」をスタンスにしているかというと,相対主義 (「いま・ここの<善い・正しい>は,別の見方では否定される」) を哲学としているからだ。
    国立大学のミッションは,これまでなかった「別の見方」の探求 (「創造」) である。
    したがって特に,国立大学は,いま・ここの<善い・正しい>で評価されることはない。

    国立大学のスタッフは,国の食客であり,「創造」を以て主人に報いることになる。
    国立大学には「創造」をやれそうな者が集められる。
    最後まで結果が出せない者も現れてくるが,それはしようがない。
    「創造」とはそういうものである。
    ただし,食客連中の場合,創造的活動や勉強の仕方は心得ており,自分の関心分野についての知識・理解もまあ確かだろうから,教育はやらせられる。 というわけで,フィードバック (食べさせてやっている分の戻り) がゼロの食客にはしないで済む。
    これが国立大学における「研究と教育」の位置づけである。

    ちなみに,大学におかしいのが多いのは,梁山泊だからである。
    逆に,おかしいのが少ないのは,拙いこととしなければならない。


    以上は原則論であるが,この原則論に国立大学の「法人化」(いまの国立大学の風潮) を照らしてみることで,「法人化」の論理矛楯と実際の支離滅裂ぶりもよくわかる。