Up 教員兼管理者の意義 作成: 2006-12-05
更新: 2006-12-05


    大学の精神的インフラは「自由主義」である。
    表向きの善悪論やイデオロギーから超然たろうとする自由主義である。

    自由は,絶えず脅かされる。
    油断したり遠慮したりすると,たちまち自由の抑圧・蹂躙が起こる。

    自由の抑圧・蹂躙は,<善人>が行うので始末が悪い。
    <悪人>が相手ならば反対するが,<善人>が行うので,遠慮・気遣いから自由の抑圧・蹂躙を容認することになる。

      自由抑圧の貌は,たいていつぎのものである:「組織の利益のため」


    たいていの組織は,構成員が自分の組織を公然と批判することを,あり得ないものとする。
    せいぜい,「批判は,内に納めて外には出さないもの」と思い込んでいる。
    こうして,「組織の利益のため」が,自由を封じる。──これを「全体主義」という。

    こういうわけで,自由の保守は「全体主義」と闘うこととほぼ重なる。
    言論を封じようとする独裁者と闘うのではなく,「組織の利益のため」と闘うわけだ。


    大学ネットワーク (情報システム) の管理の第一義は,情報的活動の自由 (特に,言論の自由) の保守である。
    この意義がなければ,管理はだれにやらせてもよい。
    この意義があるから,管理者が問題になる。

    大学ネットワークの管理をだれでもよいことにすると,大学執行部はネットワーク管理者を自分の系列に置いて,大学ネットワークを「組織の利益のため」のネットワークにしようとする。 すなわち,ネットワーク上の情報的活動の自由を封じようとする。

      「組織の利益のため」の名分に降った情報システムは,広報のシステムになる。

    情報的活動の自由を封じるのは造作もないことで,単にネットワークを使い勝手の悪いものにすればよい。 そして,現場を知らない/現場から離れた者がネットワーク管理に就けば,ネットワークは使い勝手の悪いものになる。
    よって,ネットワーク上の情報的活動の自由を封じるには,事務局にネットワーク管理事務をおき,そしてそれがネットワーク管理をアウトソーシングすればよい。


    <自由>は空気みたいなもので,それが手近にあるときは,それを保守している装置の存在に気づかない。 失われるときに,それを保守していた装置があったことに気づく。
    ──大学ネットワーク管理とは,このようなものだ。

    大学ネットワークは,(特に国立大学の場合は) 教員が管理者になって管理してきた。
    これには,自由の保守という意義がある。──そしてこれが「教員がネットワーク管理者」の最も大きな意義である。

    大学ネットワークの管理は,「三権分立」的な意味合いから,大学執行部と分かれている必要がある。
    「三権分立」を崩そうとするのは<悪人>ではなく「組織の利益のため」を唱える<善人>であるということに,よくよく留意しよう。 「うちは善人ばかりだから,大学ネットワークを執行部に委ねよう」をやったら,たちまちにネットワークに自由がなくなる。

    大学において,大学執行部に対し大学ネットワークを分権できる立場の者は,教員しかいない。 教員兼ネットワーク管理者は,労働過重が問題にされるが,かといって現状では取り替えが効かない。

     註1 : 「教員がネットワーク管理者」の意義には,もう一つ重要なものとして,「ネットワークの使用形態を知る者が担当」がある。 一般に,組織の業態を知らない者は,その組織のネットワーク管理者にはなれない。
     註2 : 「ネットワーク管理者=教員」は,人件費がケチられたことの犠牲者ではない。 多くの場合が,ボランティアである。