学習主体論と合理主義的オリエンテーション

 宮 下 英 明 (金沢大学教育学部)

       教授/学習主体論(簡単に,主体論)における認知,思考,知識等の主題化においては,合理主義がそれのオリエンテーションとして顕在化する。合理主義は本来法則定立的なオリエンテーションであるために,主体論のオリエンテーションとしては自ずと限界がある。主体論を安全に進める上で,この限界に対する認識は重要である。本論では,このような認識に立って,合理主義的オリエンテーションの同定と,その限界の把捉を試みる。またこの意味から,合理主義的オリエンテーションが相対化されるようなオリエンテーションの可能性についても言及する。
 合理主義的オリエンテーションを構成し,同時にそれの限界の理由となるものは,つぎのような臆見である:(1) 主体(一般に,世界)は covert に法則定立可能(合理的)なものとしてある;(2) 法則は,共時態としての主体を把捉するものとして探究される;(3) 探究を目的へ導くものは,論理的思考である。また,法則が covert な存在の上の法則となるため,法則定立的である合理主義は同時に存在定立的であり,したがって,このオリエンテーションは形而上学量産の弊害を伴う。


    1 合理主義的オリエンテーション
     本論で主題化しようとする"合理主義的オリエンテーション"は,探究の方法に関するものではなく(註),教授/学習主体(さらに,数学教育上の主題になるもの一般)の前理解 pre-understanding に関するものである。
     数学教育の前理解に対する合理主義的オリエンテーションとは,以下に述べるような世界観/発想傾向──イデオロギーとしての合理主義──の現実的(特に,功利的)適用である:
    • 普遍的真理,普遍法則が存在する(普遍主義);普遍法則が,客観性の根拠である;
    • われわれの探究は,普遍的知,統一理論を目指す;この探究は無限に可能である(反-不可知論);
    • 探究は理論的探究であり,その営為は法則定立である;世界は,法則を充足する世界として顕在化する──この意味で,探究は,世界の法則的解釈の実践である;
    • 特に,真と偽が存在する──法則がこれを顕在化する(「真理」信仰);
    • われわれの理論的探究が成立するのは,世界が本来合理的,合法則的だからである;世界は,論理的斉一性(整合性),統一的秩序で特徴づけられており,論理的に説明/意義づけ可能である;
    • われわれの探究は,世界の理論的解釈(論理的首尾一貫性としての解釈),体系的理解の実践である;
    • 特に,世界の理解は,論理的思考によって到達できる──この意味において,われわれは"全知全能"である;
    • 自然主義は誤謬の故に阻却される;常識的判断,直観的判断は,論理的思考に昇華されねばならない;
    • 世界の解釈としてわれわれが構築しようとする理論は,論理的生成的体系である;それの完成形は,演繹的体系である;
    • 理論は,一般的法則とそれの制限の仕方を記述する──個別は,一般的法則の制限として把捉できる(一般主義,反個別主義);
    • 秩序は,合理性(合法則性)に因っている;秩序が認められるところには,法則がある;
    • われわれが事態に見出す法則は,事態の理由である;
    • 例外事象の出現は,法則が未だ不完全であることを示している;この"不完全"に対する"完全"というものはある;即ち,事象の完全な理解をもたらす法則というものは存在する;
    • 論理学は,〈世界=論理的体系〉の論理の探究である;
    • 世界は構成的に理解できる(要素主義/構成主義);世界の法則は,世界の要素の上の因果的法則である;
    • 世界に対する構成的理解,因果法則的理解により,世界は機械として解釈できる(機械的世界観);世界は,機械としての理解において,透明化,明証化される;
    • 進化/発達は,機械論的に理解できる;
    • 普遍性は形式的普遍性であり,法則は形式的法則である(形式主義);
    • この形式の最良の表現は,数量表現である(数量主義);
    • 世界は量に還元できる(数量的世界観);このことが,法則の形式性と数量表現の根拠である;
    • 特に,世界は,物理学的,機械的力学的に理解可能である;
    • 身体は,世界のサブ・カテゴリーである;
    • "心"は,物理的実体的に説明できる(唯物論);
    • 行為は,"心"によって因果法則的に説明できる(心理主義);
    • ことばの意味,言明の真偽は,言語と世界の対応で定義される;特に,"字義的意味"の措定は正しい;

    (註) 実際,探究の方法論としての合理主義── 一種の厳格主義──については,問題はない。それは端的に肯定される。

    2 数学教育的知見

    2.1 数学教育的知見
     数学教育にどのような目標を掲げるにせよ,それを実現するのは数学の個々の指導である。この意味で,数学教育学のゴールは"指導案"である。そこで,指導案作成の直接の指針となる知見を獲得することが,数学教育学の仕事である。
     このような知見は,指導内容を定めるもの("教材論")と,各内容の指導方法を定めるもの("教授/学習論")の二つにカテゴライズされる。そして主体論は,後者に収束する。
     教授/学習論に属する知見は,つぎの形式の命題である:
      《・・・・ができる学習者をさらに・・・・ができるようにするためには,・・・・のような指導を行なえばよい》

    2.2 主体論
     教授/学習論は,主体(subject/agent)論をこれの基底部分とする。そしてこの主体論において,合理主義的オリエンテーションが顕在化する。かつ,それは限界を伴うものとして顕在化する。
     "限界"の構造は,つぎのように要約できる。即ち,教授/学習的知見の獲得を見込むとき,主体論は主体を(共時態としてではなく)通時態として把捉しているべきである。しかし,合理主義的オリエンテーションの下では,主体は共時態として把捉されることになる。(また,法則定立的立場としての合理主義に立って主体を通時態として扱うことは,もともと,われわれの手に余る問題である──合理主義にとって,〈人間=通時態〉は余りにも途方もないものなのである。)

    2.3 共時態と通時態
     共時態と通時態は,対象の"実現"の概念において区別される。
     即ち,対象Xを"共時態"として捉えるとは,Xを
        《Xを実現する要素構成》
    という形で想念することである。これに対し,Xを"通時態"として捉えるとは,Xを
        《Xを実現する歴史》  
    という形で想念することである。
     そこで,共時態の解釈と通時態の解釈とでは,Xの実現途上に位置づく対象X′とXの差の意味が,つぎのように違ってくる。即ち,共時態の解釈の場合,X′とXの差は,Xに対するX′の欠損部分Yであり,この差は,
        《X′にYが補綴されてXになる》
    という形で無くなる。これに対し通時態の解釈の場合,X′とXの差は成長の差であり,この差は,
        《X′が成長を続けXになる》  
    という形で無くなる。

    2.4 "指導"の解釈
     《対象=学習者》に対する共時態と通時態の解釈の違いは,"指導"に対する解釈の違いを導く。即ち,共時態の解釈では,"指導"は欠損部分補綴の営みであり,通時態の解釈では,成長に必要な滋養を供給する営みである。
     ここでは,"成長に必要な滋養"は"欠損部分"に読み換え得るものではないということが,肝心な点である。共時態の解釈の下では"指導"とは"加える"ことである。そして,通時態の解釈の下では"指導"とは"育てる"ことである。
     さて,合理主義的オリエンテーションの下では,学習者は──典型的には,情報処理システムとして──共時態である。そこで,"指導"は"加える"ことである。欠損部分は,ボトムアップ指向的説明において同定される。これの顕著な例を,われわれは"ストラティジー指導"の発想に見出すことができる。
     これに対し,学習者を通時態として捉えるオリエンテーションの下では,われわれは"know how"ないし経験に即くのみである。実際,学習者を育てるために必要な"水","食物","環境","運動"等を算出する式が立たないのである。われわれは
      (1)"know how"として端的に,
    あるいは(註)
      (2) 経験──種および個の経験──をヒントに,
    それらを決定する。この決定は,"いままでよりは成果がよい"という形以外では,合理化されない。

    (註) われわれが規定した合理主義の反対は,経験主義ではない(§1)。

    2.5 教授/学習的知見への合理主義的アプローチ
     合理主義的オリエンテーションでは,学習者は共時態として研究の対象になる。即ち,学習者は,システムとしてのそれの変容が《量的増減》──要素や関係の追加・削除,強度の増減,等──ないし《構造の組み替え》で説明されるような概念となる(註)
     このオリエンテーションが独特なものであることは,つぎに示す経験主義的なアプローチとの対比で明らかになる。

    (註) "量的増減","構造の組み替え" で説明されるシステムの変容は,逆方向の変容を考えることが可能である──この意味で可逆である。そして変容が可逆なシステムは,通時態(これは"非可逆な変容"で定義される)ではないという意味で,共時態である。

    2.6 教授/学習的知見への経験主義的アプローチ

    2.6.1 傾向性
     命題:
      《・・・・ができる学習者をさらに・・・・ができるようにするためには,・・・・のような指導を行なえばよい》
    は,overt な事実として,端的に発見されるべきものである(即ち,covert な法則から導出されるのではない)。
     "・・・・ができる"は傾向性であり,狭義および広義の"テスト"の結果に示されるところのものである。数学教育学は,傾向性一般のうち,数学的実践に関わるところの傾向性を専らその射程におくことになる。
     したがって,数学教育学が求めている命題の形は,
      《数学的実践的傾向性D1に対する指導Iは,数学的実践的傾向性D2をもたらす》
    である。そしてこのことを制約と定めて,われわれは数学教育学のリサーチ・プログラムを設計し,実践することになる。

    2.6.2 学習者=通時態
     D1−I−D2 の形式の命題が数学教育的知見であるためには,D1 の記述が数学学習的通時態の記述としてなされている必要がある。即ち,D1 は少数の"テスト"によって示されるところのものではなく,数学学習の歴史の記述において示されるところのものでなければならない。何故なら,教師にとって,学習者は,数学学習のこれまでの歴史(の到達点)として対峙するからである。
     実際,教師は,学習者の学歴や既習事項や,これまでのテストの成績をもとに,学習者の傾向性を判断する。一つの授業に入る度毎に学習者の傾向性をテストによって見出す(共時性として見出す)というようなことはしない。
     こうして,教師の求めている教授/学習論的経験命題は,
      《一つの数学学習の歴史の到達点としての学習者が,しかじかの指導を受けることで,何ができるようになるか(一方,何が依然できないままか)》
    を述べるものであることになり,先に述べたように,D1−I−D2 におけるD1 の記述は歴史(の到達点)の記述の形をとることになる。特に,学習者の傾向性Dを明らかにしようとするリサーチは,ある特定の〈数学学習的歴史〉が持つことになる傾向性を明らかにするためのリサーチとして遂行される。
     傾向性Dの記述は,人物に関する日常的な記述であり,特別なものではない。特に,子細かつ網羅的に記述されねばならないと考えられるべきではない──われわれの使っていることばは,もともと意味生成的である("Aは小学校3年生で,算数の成績は中程度である"という記述にいかに多くの傾向性が含意されているか,考えてみよ)。

    3 合理主義的オリエンテーション下の存在論

    3.1 存在論
     合理主義者が求めようとする知見は,生成的なものである。即ち,指導法の論理的構築を可能にする知見である。その知見の内容になるものと見なされているものは,covert な因果法則──特に,内的("心的")な法則──である。
     したがって,合理主義的オリエンテーションは,この法則定立のための〈存在〉を用意しているものでなければならない。
     合理主義的オリエンテーションの第一次的な論点は,既に述べた《主体に対する共時態としての把捉》と,この存在論である。

    3.2 covert 指向
     既に述べたように,合理主義的オリエンテーションは法則定立的オリエンテーションである。そこでこのオリエンテーションの下では,われわれは covert 指向("隠れているものを探す")となる。
     この指向は,独特なものである──われわれはつぎの立場をこれに対置できる:
      (1) 不可知論の立場
      (2) "何も隠されてはいない"(Wittgenstein)
    特に (2) との対置は,covert 指向をつぎの表現において独特なものとする:
      "overt よりも covert に惹かれる"
    実際,合理主義的オリエンテーションは,overt な経験則は covert な法則で説明されるべきであるとする。

    3.3 主体論の記述レベル
     われわれは,"主体"に対するつぎの二通りの捉え方を共有できる。即ち,"生活者"としての捉え方と,"生体"としての捉え方である。
     "生活者"としての"主体"とは,《日常語の通常の言い回しを用いて人を表現・理解するレベル》で捉えられるところの"主体"である。それは,"行為","感情","意志","状況",等々をキー・タームとして捉えられるところのものである。
     一方,"生体"としての"主体"とは,生理的組織の絶えざる変容──生体を含むより大きな物理的システムの変容(=状態が状態を引き起こす変容)の部分として捉えられる変容──である。

    3.4 物理主義的オリエンテーション
     ボトムアップとして,"生体"から"生活者"への連絡("説明")を直接つけようとするオリエンテーションがある。われわれはこれを物理主義的オリエンテーションと呼ぶことができる。所謂"心脳同一説"は,このオリエンテーションに従う。
     しかし,物理主義的オリエンテーションは不可能なオリエンテーションである。われわれは,このオリエンテーションに応じ得ない。

    3.5 機能主義,表象主義
     物理主義的オリエンテーションの不能という文脈において,合理主義的オリエンテーションの下の存在論──法則定立を可能にするための存在論──は,事実上,"生体"と"生活者"の二つの記述レベルの間に中間的な記述レベルを挿入しようとするものになっている。
     この場合,二つの異なる立場が現前している。即ち,機能主義的と称されるものと表象主義的と称されるものである。
     機能主義的オリエンテーションの場合,導入される記述レベルの意義は,"生活者"に対する機能的な説明を与えることである。
     これに対し,表象主義的オリエンテーションでは,導入される記述レベルの意義は,"生活者"に対する実体的説明を与えることにある。表象主義的オリエンテーションの下では,〈実体的説明〉を可能にするための実体として"内的(心的)表象"が仮構される。表象主義的オリエンテーションの下の主体論の典型は,人間知能に対する"情報処理システム"としての解釈である。

    3.7 形而上学
     合理主義的オリエンテーションの下,法則定立のために用意された〈存在〉については,証明はもちろん反証(Popper)もできない。結局,それは一つの形而上学である。──このように,合理主義的オリエンテーションは形而上学量産の弊害を伴う。
     われわれは,つぎの選択肢を迫られる:
      (1)〈存在〉を事実として受容するか,それとも
      (2) あくまでも虚構として受容するか。
     (2) の場合,存在の形而上学は"モデル"として生き残らせることができる。但しこのときには,われわれは"モデル"の効用を示す責務を負う。
     (1) の場合には,形而上学批判に出合う。批判は通例,"文法的幻想"(Wittgenstein)ないし"物象化(コトのモノ化)"を指摘する論法をとる。──例えば,表象主義は《文法的幻想の導く"心"の物象化》ということになる。
     さらに,科学的な批判もあり得る。例えば,表象主義的仮説を,処理ステップ数やフレーム問題(註)の観点から論難するなど。

    (註) 合理主義的オリエンテーションに導かれていることになる逐次処理型のAIでは,状態の変化を対象とする問題を解決する場合,変化しない事実もまた陽に表現しておかなければならない。これは,表象量の爆発的増加という事態を招く。

    3.8 メタ認知批判
     形而上学批判には,"論駁"(Lakatos) タイプのものも考えられる。例として,メタ認知批判に及ぶ表象主義批判を示す。
     表象主義的オリエンテーションでは,表象の処理(例えばストラティジーの援用)も,ある表象を適用することとして説明されなければならない。ここに,"メタ表象-メタ認知"の発想が起こる。
     しかし,"メタ表象による表象処理"のシェマは,"メタの無限累積"の問題をもたらす──これは,"デカルトの小人の無限後退"の別表現になっている(註)
     したがって,"小人"をナンセンスとする限りで,"メタ認知"もナンセンスと同断される。

    (註) 表象主義に即くとき,わたしは表象の処理を,わたしの内なる内的表象の処理によって行なっていることになる。この内的表象は,わたしにとって不可知のものであり,わたしの手から離れた存在である。よって,それを処理するのは,わたしの内なる"小人"でなければならない。ところが,再び表象主義のオリエンテーションから,この小人による表象処理も,小人の内なる内的表象の処理によるのでなければならない。この小人にとっても自分の内的表象は不可知である。よって,この小人の中にも,内的表象を処理する小人が居住していなければならない。これが"小人の無限後退"である。
     "メタ認知"の概念を導入するとき,"小人"の身分は"メタ認知者"ということになる。もっとも,"メタ認知"のイメージでは,メタ認知者は("小人"の場合とは逆に)外側に展開する──メタ認知者は,自分を天から見降ろしている自分である。しかしあくまでも,"メタ認知"は"デカルトの小人"と同型の発想である。

    4 文法的幻想,形而上学
     ここで,"文法的幻想"と"形而上学"を,数学教育学を科学として実践しようとするわれわれにとっての陥穽として,改めて主題化しておく。

    4.1 文法的幻想
     ことばを操る者としてわれわれは文法的幻想から免れ得るものではないが,このことを認識しておくことは重要である。
     そもそも,われわれが文法的幻想主導のリサーチ・オリエンテーションに即きやすいのは,まさにそれが実行可能なオリエンテーションであるという理由による。そして,文法という可知が対象であることが,実行可能の理由である。
     合理主義的オリエンテーションは,"論理主義"という形の文法的幻想が導くオリエンテーションになっている。論理主義の限界は合理主義的オリエンテーションの限界でもある。

    4.2 規範学と科学
     規範学 normative science と科学 positive science の区別──同類のものとして,coherence theory と correspondence theory の区別──は,数学教育学のオリエンテーション一般を把捉する一つの有効な観点になる。この区別は,参照すべき〈外部〉を理論がもつか否かの区別である。
     規範学的言説の妥当性は,当該の規範学を構成している〈法〉によってチェックされる。科学的言説の妥当性は,"外部〉によってチェックされる。

    4.3 形而上学
     規範学の上の存在論は,形而上学になる。逆に,形而上学は規範学をなす。規範学と形而上学を結びつけているものは,存在に関する証明および反証の不可能性である。この故に,それらに属する言説は無意味であり,日常的言説から退けられ(Wittgenstein),科学的言説から退けられる(Popper)。
     例えば,表象主義的オリエンテーションの下の"心"の実体的説明は,規範学=形而上学を形成する。
     形而上学の言説は反証不可能であるが,論駁(Lakatos)の仕方がないわけではない。論駁には二つの形式が考えられる。それぞれ coherence theory,correspondence theory としてのそれの欠陥を突くものである。
     但し,規範学=形而上学の言説が無意味であるということは,それが無価値であるということを意味するのではない。実際,規範学=形而上学は,"計算体系"ないし"メタファ"の観点からの意義がある。

    5 合理主義的オリエンテーションの限界
     合理主義的オリエンテーションそのものには,是非はない。是非は,ある研究領域への合理主義的オリエンテーションの適用について問われる。
     数学教育学への適用に関しては,合理主義的オリエンテーションは限界をもっている。その限界は,簡単に言えば,合理主義的オリエンテーションが
      〈主体=歴史=通時態=不可知〉
    の問題を
      〈主体=文法=共時態=可知〉 
    の問題に替え,さらに"文法"による主体の説明を試みるものであることによっている。
     この限界を理由に,合理主義的オリエンテーションを直ちに数学教育学にとってミス・リーディングであるとするか,それとも一定の留保をもってそれの適用を妥当とするかは,ひとによって判断の分かれるところであろう。
     後者については,プラグマティックなスタンスを採っていると言える。しかしこのスタンスをとり続けることは,現実には容易ではない──と言うよりは,そのようなスタンスを想像することは難しい。実際,一つのオリエンテーションの下で得られる命題Pは,同時にPの否定 ¬Pを阻却する命題である。肯定と否定に折り合いはつくのか?
     以上の論点を,問題解決論の場合で,考察してみるとしよう。

    5.1 例:問題解決論
    (当日資料)

    6 合理主義的オリエンテーションの相対化
     合理主義的オリエンテーションは,別の有力なオリエンテーションが現われることで相対化される。
     現象学的オリエンテーションや,Ryle,Wittgenstein の示したオリエンテーションは,合理主義の阻却を含意する有力なオリエンテーションである。
     これらのオリエンテーションで特徴的なことは,不可知論を根底に措いているということである。関連して,ボトムアップ的説明を許すメタファ(モデル)をもっていない。そしてこのことが,合理主義的オリエンテーションと比較したときの,これらのオリエンテーションの弱味になっている。
     コネクショニスト・モデル(PDPメタファ)は,これらのオリエンテーションに沿うメタファになっている。併せて,合理主義の一つの顕著な現われである表象主義を阻却するオリエンテーションになっている。
     わたしの見るところ,コネクショニスト・モデルの意義は,(情報処理システムが,共時態メタファであるのに対し)通時態メタファになっているということである。そして,コネクショニズムの貢献は,これの実践を通じて人間知能の不可知性が根柢的に明らかにされるところにある。
     この不可知の理由を端的に述べれば,
      "通時態として知るには,それの歴史を目撃し続けていなければならない"
    ということである。この不可知性は,絶対的に受容しなければならない性質のものである(註)

    (註) 不可知論は蒙昧主義を意味しない。実際,それは科学志向と両立可能である──逆に,原理的不可知に対して可知への展望をほのめかす言説は,非科学である。

    参考文献
    (当日資料)