Up 0.1 "素朴なアプローチ"  


     数学教育の最終ゴールは,授業の試案──指導案──である。いかなる学知的考察も,授業のための具体的試案として結実すべきものであり,この意味で,具体的な指導案こそが数学教育の成果でなければならない。

     この観点から数学教育学の現状を見ると,それはますます見通しの悪いものになりつつある。専門性志向の傾向と相俟って研究の射程が小さくなり,〈直接性〉が失われていく。

     そこで,もう一つの種類の研究が必要になる。即ち,ゴール──指導案──を直接視野に置いて,そこへ大股に歩いていくといった態の研究である。

     専門性という観点からは,この種の研究は"研究"とは見なされないだろう。しかし,数学教育の現場との対話性を第一義的に考えるならば,このような"研究"はなければならない。わたしは,このタイプの"研究"を"数学教育への素朴なアプローチ"と呼ぶことにしよう。

     "素朴なアプローチ"は,乱暴な展開を余儀なくされるし,十分把握していない内容に言及したり,怪しい解釈を決断して行なうということもしなければならない。実際,大股に歩かねばゴールには到達しないのだ。

     "素朴なアプローチ"は研究として認められるであろうか。わたしの考えは,"やってみなければわからない"である。

     "素朴なアプローチ"に対する専門的立場からの批判は容易である。実際,"素朴なアプローチ"は専門的見地からの批判を呼び込み,それを自らの成長のための栄養にすることを見込んでいる。批判への防御が強迫になって瑣末にのめり込んでしまう専門的研究を,"素朴なアプローチ"は真似ない。

     そこで,批判のルールが必要である。批判は,行論の粗さや偏り("独善性")──敢えて犯していること──を指摘して終わる非難であってはならない。《これこれの理由により,その大股はこのような大股にならねばならない》という形のものでなければならない。"素朴なアプローチ"の命はゴールへの〈直接性〉である。〈直接性〉が確保されてさえいれば,どのような破壊も許される。しかし,〈直接性〉を断ち切るような"指導"は困る。

     本論は,わたしなりの"素朴なアプローチ"のための緒言である。わたしは,ここでは,大股の歩みをさらにはしょって途方もなく大股に歩くことになる。専門的立場から見て,わたしの物言いが全くの"シロート"のものであり,がまんできないものであることは,予想に難くない。しかし,これまで述べてきた意図を汲まれたい。

     また,本論ではしばしば表象主義が──全く乱暴な形で──批判される。それは,わたしの考える大股の歩みに対し,表象主義的な概念装置が障害物として現われてくるからである。一般に,わたしの或る一歩は,或る障害物を随伴的に蹴飛ばしてしまう一歩になることがある。