Up 3.2.2 数学の遊具的意義  


     理論家は,理論を生成するカラダをもっている。("理論を生成する規則をもっている"が普通の言い方になるが,ウィトゲンシュタインが示したように"規則"の概念は実は保持し得ない。)理論家は己れのカラダに従って理論を生成する。この意味で,自閉的に理論を生成できる。
    こうして作られた理論は,いつか誰かにとって道具になるかも知れない。この意味でそれは可能的道具であるが,しかしまた,この意味では何だって可能的道具になる。では何が理論の可能的道具としてのモラトリアムを許しているのか。

     いくつかの場合が考えられる:
      "何かにどうということではないが,捨てるには惜しい魅力がある"
      "つくった苦労を思えば,捨てる気がしない"
      "遊具として楽しめる"
    このうち数学教育が主題的に関わり得るのは,最後の遊具的意義である。逆に,道具,遊具のいずれかの意義も認められないときは,理論はアブストラクト・ナンセンスとして捨てられる。(但し,"捨てられる"とは無くなることではなく,道具/遊具としての意義が見出されて復権されることもある。)

     しかし,《数学=遊具》は,数学教育の主題として非常に困難なものである。われわれは数学で遊ぶことを数学教育的にどのように意義づけることができるであろうか。"遊び"はそれ自体が求められるものであって,ある目的に到達したり,見返りを得るために経なければならない過程ではない。したがって問題は,《"数学で遊ぶ"それ自体で完結するような数学教育的意義は何か?》である。

     例えば,息抜きは学校生活で必要なものであり,このために"数学で遊ぶ"が採用されることはあり得る。しかし"息抜き"はここで考えようとしている意義ではない。何故なら,この意義は自己完結的ではなく,"つぎ・あと"を配慮しているからである。

     わたしの見るところ,"数学で遊ぶ"の数学教育的意義は,"自己の内なる〈欠落〉の発見/確認"という枠組みで捉える以外にない。しかしそれはどのようになるか。わたしにはわからない。この主題についてはいまは保留するしかないし,特に,教材レベルで《数学=遊具》を積極的に立てることもできない。これはわたしの課題である(しかし,読者と共有したく思う課題である)。