Up 3.6 機能欠損の教育  


     教育=機能の図式:
      《学習主体に食物Xを食させ,行為Yができるカラダに成長させる》
    に対し,XとYの一方が欠損している図式:
      《学習主体に食物Xを食させ,行為?ができるカラダに成長させる》
      《学習主体に食物?を食させ,行為Yができるカラダに成長させる》
    を,"機能欠損"と呼ぶことにしよう。

     ひとはしばしば"X=Y"("食べた肉が直接自分の肉として現われる")と考えてしまうが,この錯認の導く教育では,論理上,少なくともXかYの一方が欠損していることになる(註)

     教育の機能欠損は,しかし,"X=Y"とする錯認を専ら原因とするのではない。実際,教育事業は準備万端整ったところから始めているわけではない。それはつねに試行している。機能の欠損の解消を自らに課して,歩んでいるのである。

     しかし例えば,"数学教育の現代化"は,"X=Y"の錯認に因る教育の機能欠損から失敗したと言える。実際,《現代数学を食わせることで現代数学が身につく》と単純に考えられたのだ。
    つぎのことが必要であった。即ち,指導を固定するとき,それがどのようなゴール=言語ゲームを見込んでいるかを明確に把握していること。また,ゴール=言語ゲームを固定するとき,指導を確実な"食物"として実現していること。
    "現代化"にはこれがなかった。したがって,"現代化"については,失敗したというよりそもそも遂行されなかったと言う方が適切かも知れない。

     "遂行されなかった"という見方を入れるとき,"小学算数","中学数学","高校数学","大学数学"のようなことばも安直には使えなくなる。実際,それらは遂行されているのか? 即ち,図式:
      《学習主体に食物Xを食させ,行為Yができるカラダに成長させる》
    におけるX,Yは埋められているのか?

     先に述べたように,教育の事業は教育の試行であり,X,Yは多くの場合埋められてはいない。しかし,X,Yが公けに埋められている状態がよいというわけではない。このことは強調しておく価値がある。自由−逸脱−アナーキーの路線(§3.2)は,教育にタッチする者の集団についても貫徹されていなければならない。

     機能欠損の教育がそこにあるということが問題なのではない(それはつねにある)。"機能欠損"がはじめから意識に上っていないこと,それがあるとすれば問題なのだ。言うまでもなく,われわれは教育の機能欠損の解消をつねに志向する者でなければならない。


    (註) 《X=Y》の錯認のうちに,"X=Y=教科書"がある。教科書そのものはもともと完結した食物として作られているわけではなく(勿論,しようとしてもできない),また,教科書が"読める"ことがゴールとなるわけでもない。〈教育=関数〉にインプットされるテクストの一部に教科書が組み込まれる。教科書はあくまでも〈テクスト=食物〉の一環である。