Up 量計算の数学 (量の問題の数学的還元) の想起  


    数学の場合,問題を解くとは,論理に則って問題の還元 (簡約化) を進めることである。 実際,このとき行く着いたもっとも簡約された形が,「解」になる。

    問題が複雑になれば,還元のステップ数が多くなる。
    適用される定義・命題も多くなる。
    量の問題を「還元」の形で解けるためには,「量・数」の数学がきちんと押さえられていることが必要になる。 「量・数」の数学をやっていなければ,解を求めることを数学として行うことはできない。

    現行は,「量・数」の数学をやらない。
    では,現行は,「量の問題を解く」をどのようにやっているのか?
    現行は,「公式」「形式不易の原理」の適用でやっている。 「公式」「形式不易の原理」を使うことで,推論を跳び越える。
    「公式」でいうと,「長さ×長さ=面積」「距離÷速さ=時間」の類をそのまま教える。 (「×・÷」は数に対して用いる記号であり,これは「×・÷」の誤用である。しかし,現行は「数は量の抽象」の立場に立っているので,誤用とは思わない。)

    学校数学は数学とは違う。 したがって,「量の問題を解く」が数学としてやられていないから「ダメ」ということにはならない。
    「量の問題を解く」が数学としてやられていないことが問題になるのは,これによって困ったことが起こってしまう場合である。 そして,実際,困ったことが起こってしまう。

    先ず,「量の問題を解く」を数学にしないやり方は,長くはもたない。 早晩,苦しくなる。──小学算数であれば,特に分数の積・商が入ってくるところ。
    つぎに,「量の問題を解く」を数学としてやらないとは,これを数学としてやるカラダがずっとつくられないということである。 数学をするカラダがつくられないのは,教員も同じである。


    しかし,学校教員にとって,「論理」は高いハードルである。
    論理を知り論理を運用することはカラダのものであり,そしてこのカラダの形成が容易でない。 量の問題を解くときの論理はそれほど難しい内容ではないが,人のカラダは「論理」に抵抗するものように見える。

     註 : 論理を指導されるわけではないのに,人は高度に論理の運用ができる。 これは,人の使うことばが,<論理の高度な運用を自ずと実現するもの>のようにできあがっているからである。

    「論理」を苦手とするとき,ひとは結果先取りに向かう。
    すなわち「できる」に向かう。
    問題解決では,問題の論理的還元ではなく,問題の見掛け (パターン) に対応する方を択ぶ。
    教師もこれをやってしまう──無意識に。


    「公式」「形式不易の原理」を使えば,推論を跳び越えられる。 「数は量の抽象」は,これを逆用する格好になっている。
    すなわち,「公式」「形式不易の原理」の適用を合理化する理論になっている。

    「数は量の抽象」は,<量→数>の写像論である。
    量の問題に対しては,これに応ずる数式があることになる。
    両者の関係は「写像」であるから,「問題の論理的還元」という主題は発生しない。 特に,この理論は推論を封じるものになる。

    写像論と「問題の論理的還元」の二つを示されると,ひとは写像論の方を択んでしまう。 一見,簡単であるからだ。
    実際,速さの問題は,速さの公式を使わせれば小学生も答えを出せるようになる。 一方,「問題の論理的還元」の方は,大学生でも難しい。
    量の問題を数の問題にかえて解く場合,論理を厳格に適用して問題の還元のステップを一つ一つ踏むのと,ワン・ステップでやってしまうのとでは,後者の方が自ずと択ばれてくる。


    学校数学は,「数は量の抽象」を長くやってきた。 「数は量の抽象」で教えられた生徒が教員になり,その教員が「数は量の抽象」を教える。 これが繰り返されていまは,「量の問題を解く」が数学であるということ,その数学の形は「問題の論理的還元」であるということも,知られなくなっている。

    したがって,数学教育に携わる者は,自分の役割として,この状況を指摘しつつ,「量の問題を解く」の数学の形であるところの「問題の論理的還元」を改めて示していく必要がある。