数学教育論の中の形而上学 |
宮下英明
(金沢大学 教育学部) |
無いものを在るものにしてこの存在の上に論を展開する;このようなことに対して "形而上学的" ということばが用いられることがある。この意味では,学知的と言われる言説は多かれ少なかれ形而上学──非在の仮構,非在たちの世界の構築──であり,数学教育論も例外ではない。それどころか,現在顕著な数学教育論のいくつかは,はっきりと形而上学的に展開されているものである。即ち,発達論(発達段階論,概念発達論),理解論(プロセス論,類型論)といった認知科学(認識論)的な論がそうであり, "数学的な考え方" とか問題解決論がそうである。 しかし,それら形而上学は,固より形而上学として企画されたものではない。<事実>究明の言説のつもりが,結果として形而上学の展開になっていたということに他ならない。形而上学は,しようとしてしているのではなく,してしまっているのである。 何故ひとは形而上学に陥るのか。それはひとの一般的な傾向なのか。それとも,ひとを形而上学の実行へと追い込む罠とかプレッシャーのようなものが特にあるのか。 先ず,つぎのことに留意すべきである。即ち,考えなければ形而上学は起こらないということ。これは当たり前である。しかしそれは,<考える>こと自体の中に形而上学の罠が潜んでいることを示唆していないか。 実際,ひとにとって<考える>とは,ことばによって分析的に考えることである。そこでこの分析は,ことばの分析──論理(文法)そのものの考察──に陥り易い。そしてこのときには,<考える>はトートロジーの展開以上のものではなくなる。 ことばこそは,形而上学の罠である。しかし,これを措いては<考える>の素材は他にはない。<考える>とは,したがって,さながら形而上学の上の綱渡りであり。 考えなければ形而上学はないとはいえ,<考える>ことを仕事にしている──言い換えると,<考える>人として認められることを仕事にしている( "publish or perish" )──以上は,<考える>ことをやめるわけにはいかない。(<考える>ことの自己目的化!)しかも,この<考える>は,私的でいることはできない。それは通じる必要がある。 このときには,<考える>とは,ある学知的共同体が支えている一つの言語ゲーム(Wittgenstein)を受け入れ,それの規範(文法)に適った言語運用を実践することである。<考える>人として認められることを目的化したときの<考える>は,少なくとも外見的には,この共同体のことばの規範的運用のレベルにとどまっていなければならない(言語ゲームへの参加)。 そこで,この場合の言語ゲームが既に形而上学的であるとすれば,或る言説がこの世界で通じるということは,そのまま,その言説が形而上学的であることの意味になる。したがってこのときには, "通じる" ことへの意志──結局,<考える>人として認められることへの意志──が,形而上学の罠になる。 ある学知的な言語ゲームにどっぷり浸かっているひとをわれわれはその道の専門家と呼び,このゲームから最も遠く離れているひとを "ズブの素人" と呼ぶ。しかしこの意味では,形而上学的言説から離れているためには,ひとは素人でなければならない道理となる。 全くの素人には,学知的世界が一つの言語ゲームであることをそのままに感じることができる。実際,彼にとって学知的世界は知らない・馴染みのない・奇妙なことば使いをする世界として現前する。ところが,彼がその道にはまっていくにつれ,ことばに対して当初感じていた違和感は次第に薄れ,逆にこのことばの世界にリアリティーを感じるようになり,さらにそのリアリティーを信じるようになる。ひとはこのようにして専門家=形而上学者になっていく。 ○ ことば,一般概念 形而上学は,ことばをことばの内でのみ操るときに始まる。そしてそれはわれわれの生活においては何も特別なことではない。形而上学はわれわれの常に身近にある。 例えば,一個の名詞に対し,ひとはこれを或るものの名のように考えたがる。また実際,その<もの>を仮構したり,他人が既に仮構しているところのそれを受け入れる。これは,単純とはいえ,既に一つの形而上学である。 ひとは,この仮構された非在たちから一つの世界を構築することができる。但し,その構図は,ことばの文法によって予定されていたものである。 実際,非在たちの自律性──即ち, "世界" ──は,ひとえに文法=言語ゲ−ムの自律性に因っている。文法は,概念の内包・外延の論理として,自律的である。そこでは,ことばの相互間の論理的な(文法的な)関係が問題になるのみであって,何がこの関係の実体的な表現になるかという問題は,閑却し得る。(例えば,形容詞+名詞の統辞の規則は, "赤い" + "白" = "赤い白" の結合を許す。この結合をナンセンスとするのは統辞規則とは別の論理である。) 逆に,ことばの世界には,非在の世界しか応じ得ない。それは,ことば=概念が須く一般概念だからである。語の意味は,詰まるところそれの<使用>であるというのが Wittgenstein の認識であるが,この<使用>は,この語の使用が許される事態は一個ではない(いくつもあり,またその範疇は開いている)というような "使用" である。そして各概念はこのような意味で一般的=集合的である。(固有名詞といえども,それに応ずる概念は一般的=集合的である。実際,われわれの考える<個>は,《個は異なる局面の中でも同じ個である》という意味合いのものである。)語の役割は,一つの範疇=枠を先取して,しかじかの対象をこの範疇の要素=この枠内に入るものという形で捉えることにあるわけであり,また実際,日常生活においてわれわれはそのように語を用いている。 繰り返すが,語は範疇の先取りをしているだけである。その範疇には既に埋められている席と空いている席がある。そして空席が埋め尽くされることは決してない──範疇は永久に開いている。それは範疇が,実践の途中経過としてのみ現実的であるという意味で,実践的な性格のものだからである。 しかしひとは,時に語だけを単独に見つめることをし,そしてそのとき,この語の意味になるような<実体>(そのようなものの総体)が予め存在しているというように考えたくなる。 また,形而上学的に構築された非在の世界は,ことばの世界のコピーであり,そこに新しいものの出現はない。その中の事態は,既にことばの世界にあったものである(予定調和!)。したがって特に,形而上学的実体の解析は,ことばの論理の蒸し返しに過ぎない。しかしひとは,この事実を看過する。そして,それが正しく実在の解析であり,真理の探究であると,思い込む。 ○ 一般行為,一般能力 数学教育論において,行為,能力はしばしば一般行為,一般能力の形で語られる。しかしこれが一般行為,一般能力を実体化する発想によっている場合は,それは一つの形而上学である。 行為および能力の概念は,概念一般がそうであるように(前節),範疇の先取ということにその役割をもち,そしてその範疇は実践的性格のものである──即ち,範疇の内容は決定されていない。 現実の一般能力の概念は,そっくり一般行為の概念にもたれかかっている。即ち,一般能力の各々は,ある一般行為をする力という形で捉えられており(例えば, "計算する力" ),逆に,一般行為のことば "‥‥する" に "力" ということばを付け加えればそのまま一般能力のことばになる。特に,このような語の結合が文法的に許されているために(事実に照らして許されているのではない!),一般能力のことば=概念は手軽に量産されていく。 さて,能力論の典型的な(旧式な?)スタイルに,一般能力のタクソノミ−がある。しかしそれは,能力に対する新しい知見を本質的にもたらすものではなく,ことばの一つの整理に過ぎない。実際,一般行為+ "力" という形で述べられるだけの一般能力の分類的記述ということで,それは一般行為の分類的記述に帰せられる。そして後者は,行為のことばのト−トロジー的展開に過ぎない。 ○ 段階論,プロセス論 数学教育論の顕著なスタイルの一つに,段階論がある。それは, "段階" を実在として措定する形而上学であり,プロセス論も(プロセスを形成する新しい事態の逐次的現出を段階の形で述べるものとして)この段階論の一部と見なせる。 段階論は(概念)発達段階論とか,思考プロセス論,理解プロセス論,問題解決プロセス論といった形で現前しているが,それは,観察し得る行為現象を段階論的に記述したものの,単純な読み換えになっている。(例えば, "理解プロセス" は,なし得た行為を理解の形に読み直すことで,つくられる。)即ち,行為現象が段階論的に記述されるということが,段階論という形式の理由になっている。 では,何故 "行為現象の段階論的記述" なのか。それ以外に仕様がないからである──行為現象の記述は,段階論的に記述される他ない。そしてそれは,ことばというのがそのようなものだからである。 即ち,行為現象の記述では,現象の中のある様相を一つの行為のことばで表現するということをし,そして,こうして出てきた行為のことばの間に相関──概念としての行為の継起の順序関係=論理的(文法的)な関係──の図式を立てるということをする。ところが,ことばとことばの間には断絶がある。そしてことばを加えることは,この断絶を埋めることには効かない。別の断絶をつくるだけである(しかも,その数は前のときよりも多くなる!)こうして断絶は断絶のまま放置されるしかない。そしてこのとき,行為のことばの相関の図式は,段階論の図式になっている。 このように,段階論の理由は行為現象の段階論的記述にあり,そしてことばの在り様が,後者の理由になっている。これが,段階論=形而上学である所以である。 ○ 数学教育目的論 数学教育目的論は, "数学教育の目的は何か" という問いに答える(あるいは答えられない)という形で展開される。そしてここでは,つぎのことが疑われていない。即ち,数学教育にはことばで述べ得る目的があるということ,あるいは少なくとも,ことばで述べ得る目的があるべきだということ。しかし,これが前提にならねばならない理由はない筈である。──その "目的" が,数学教育=現実の理由としての "目的" であれ,数学教育=現実を否定するために根拠として持ち出される "(数学教育の本来的な)目的" であれ。 ○ 一般教育 数学教育目的論の一つの顕著な(今日支配的な?)形態は,つぎのような発想に導かれるものである。即ち, "数学科の内容そのものは専門的な知識である。一方一般の子ども[学生]は専門家=数学者になるわけではない。このような彼らに対する数学教育は,一般教育(一般者のためにする教育=一般者としての子ども[学生]に有意味な教育)として位置づけ得るものでなければならない。では,数学教育はどのようなものとして,一般者としての子ども[学生]にとって有意味となるか。子ども[学生]が将来どのような生活形態に入っていっても,そこで効くことになる或る一般的(普遍的)資質── 一般能力,傾性,態度──を涵養するもの,としてである。" この発想は一見筋(論理)が通っているように見えるが,それはことばの上でのことに過ぎない。 先ず, "数学科の内容=専門的知識" における "専門的知識" の概念が空虚である。それは,ことばの独り歩きになっている。実際,一線級の数学者が目下操っている知識を専門的知識と呼ぶならば,数学科の内容は専門的知識ではない。また,数学科の内容が社会成員の素養になったときには,数学科の内容は最早専門的知識などではない(例えば1から 100 までの読み書きをいまや "専門的知識" とは呼ばないように)。 "一般者としての子ども[学生]に有意味な数学教育" の発想のスライドとしての "多様な生活形態に通底して生きる一般的資質の涵養" の発想にも,依然ことばしかない。ここで言う "生活" が,実際の生活のことになっていないのである。 その "生活" は,算数・数学科の内容について "生活に役立つ・役立たない" が言われるときの "生活" と同じである。実際,算数・数学科の内容についての "生活に役立つ・役立たない" は,生活の中に算数・数学科の内容が現われる・現われないということである。そして, "将来<大人>になって営む生活一般" の方も,一般的資質によって(一部)保障が与えられるところのものということで,算数・数学科の内容が直接関わるものとしては発想されていない。 しかし,人の生活とはそのようなものなのか。即ち, "生活に役立つ・役立たない" が上のような卑近な意味で言われるところの "生活" は,現実の生活か。そうではあるまい。 ひとは,数学的知識と "生活" との関わりを,ことばの上で,即ち抽象のレベルで,考えてしまう。そして,このレベルで考えられた "用・不用" の規準で,数学的知識を退ける。しかしここには,生活する主体というものが全く現われていないのである。言うまでもなく,数学的知識は,この主体の一契機として考えられなければならない。 ○ 形而上学への支持機制 形而上学は,むしろひとが親しみを感じるところのものである。(この言い方が奇妙に聞こえるならば,形而上学のことばと形而上学に対する懐疑のことばのどちらがキャッチしやすいか,実際に比較してみよ。また,どうしてそうなるかというと,形而上学が,われわれが浸っている言語世界の単純なコピーだからである。)この形而上学に対する親近感は,形而上学を支持する理由としては消極的なものであるが,現実には絶対的な理由になる。こうしてある形而上学は,圧倒的多数による受容と支持の下に一つの<常識>となる。 また,形而上学の受容はレトリックの受容と外見上区別がつかず,このことがまた形而上学を一層気安いものにしている。実際,或る形而上学的な物言いは,言い回しの簡便とか詩的な(ロマンチックな)効果のために選ばれた物言いであってもよいわけである。例えば, "〜する力がある" の言い方は,単に "〜ができる" の言い換えとして用いられているだけのものであり得る。 但し,形而上学的レトリックの受容は,形而上学の受容の現実的第一歩にもなり得る。実際,少なくともそこでは形而上学的存在の意識対象化が起こるわけだから。例えば, "〜する力がある" は,差し当たっては, "〜することができる" のメタフォーリックな言い換えに過ぎないが,ひとはつぎに "〜する力" を問題にしたがる。そしてこのとき,何故 "〜する力" でなければならないのかという根柢的な問題を閑却してしまう。──実際, "力" でなくて,神秘的な物質が体に入ったり出たりでもよいわけだ。また, "〜する" ということばが無ければ, "〜する力" という対象化は起こり得なかった。ひとはこの点を看過する。 |