Up 反-合理主義-的オリエンテーション 作成: 2012-08-29
更新: 2012-08-29


    目  次

    1 《問いを問う》
    2 全体主義(holism)
    3 プラグマティズム
    3.1 真理観
    3.1.1 対応説に対して
    3.1.2 "客観性"観
    3.2 合理主義,理性主義に対して
    3.3 科学主義に対して
    3.4 "探究"観
    3.5 歴史観
    3.6 言語観
    4 反-心理主義
    4.1 ライルの論理的行動主義
    4.2 《心=傾向性》
    4.3 "心"の探究
    4.4 論理的行動主義と心理学的行動主義
    4.5 意識状態
    5 コネクショニズムとPDPモデル
    5.1 コネクショニズム
    5.2 PDPモデル
    5.3 反-表象主義-的モデル
    5.4 モジュールの否定
    5.5 反-機能主義-的モデル
    5.6 PDPモデルの教育的示唆
    5.7 通時態モデル
    5.8 人間の原理的不可知性
    5.9 伝統的メタファの無効化
    5.10 先天性-後天性の区分の解消
    6 不可知論



    1 《問いを問う》
     ウィトゲンシュタインは,分析哲学の流れの中にあって,哲学的な問題の多くは人々の平生のことばの使用を注意深く観察することによって解消的に解決されてしまうものであると見た。文法的幻想に導かれて,奇妙な問題が生み出される。したがって,われわれがどのように言語を使用しているかを正しく理解することで,奇妙な問題は自然におさまる。
     さて,ウィトゲンシュタインの見るところでは,"心理学者たちは理解してもいない問題を解こうと試みている。それらの問題は真性の科学的な問題ではなく,むしろ実際には,一定の言語使用の内に埋め込まれたものなのである。"(Gardner,1985,p.66)

    心理学における混乱と不毛さは,それを若い科学と呼ぶことによって説明されるべきものではない──実験的方法があるばかりに,われわれは,自分を困惑させている問題を解決する手段を手にしているのだと思い込むのだが,ここでは問題と方法がすれちがってしまう。(Wittgenstein,PI,xiv)

     奇妙な問いを鎮めるためのオリエンテーションとしてウィトゲンシュタインが示すものは,一種のプラグマティズムである。即ち,現象を説明せずに受け入れること,説明しようとせずに記述すること,というのがそれである。


    2 全体主義(holism)
     全体主義を数学教育学方法論に引き寄せるときのそれの意義を,簡単に述べる。
     この立場では,〈全体〉が,常識的に考えられる"要素","要因","個"等に先行する")。"要素"等は〈全体〉の一つの局面(様相)に過ぎず,また分析という手続きで〈全体〉から得られるものでもない。
     実際,"要素−構成−分析"の発想は,合理主義的オリエンテーションの下にあり,全体主義の認めるものではない。
     全体主義については,存在論的立場と意味論的立場の両方を考え得る。ここでは,差し当たり,意味論的立場として導入しておく。このときそれは,
    《"要素(要因,個)"は,〈全体〉の一つの様相のこととして,〈全体〉から切り離すとき無意義になる》
    とする立場である。
     ひとは,"全体主義的オリエンテーションの下では,探究のしようがない"と言いたくなるかも知れない。しかし全体主義の立場に即けば,この苦情は批判としては筋違いということになる。即ち,
    探究をすべて一様に合理主義的に設定しようとすること(そしてこのようにすることを"科学的"と見なすこと)の方に問題がある
    のであって,
    探究は,合理主義的オリエンテーション下で可能なものと,全体主義的オリエンテーションの下でしか行なってはならないものとに,分けて考えられるべきである,
    となる。

    (註) "全体"の意味は,主義や主題に依存する。例えば,"人"に対する"類的存在","社会的存在","歴史的存在"といった規定では,それぞれ異なる意味の"全体"が考えられている。


    3 プラグマティズム

    3.1 真理観

    プラグマチティストが反対する考え方 プラグマティストの考え方

    ・"真理"なるものが"外に"あって,人間に発見されるのを待ってい ・自由な戦いにおいて獲得されたものが,"真理"である。
    る。真理は一つである。
    ・信念の効用は真理によって説明できる("信念が役に立つのはそれが ・"真なり"は,われわれの合意し得る信念に対して適用される言葉で
    真だからである")。 あり,"正当化された"とほぼ同義である。それは,当該信念を是認す
    るのに使われる褒め言葉であり,説明的用法はない。
    ・真理論の構築: ・真理論の解消:
     われわれの理論がなぜ役に立つかを説明するには,真理論が必要であ 信念とそれ以外の実在との関係について知るべきことといえば,有機体
     る。 とその環境との因果的相互作用に関する経験的研究から学ぶことだけで
    あり,そしてこの経験的研究がもたらす重要な成果は,フィールド言語
    学者の〈民俗誌的報告付き翻訳マニュアル〉である。
    捜すべきものなどない。
    理論がなぜ役に立つかを説明しようとする真理論は,循環になる
    真理は,つねに証拠を超えている。
    ・われわれは〈真理〉に対して責任がある。 ・われわれが責任をとらなければならないのは,自分たちだけである。
    "われわれが責任を負うべき何か──真理──が外にある"というわれ "われわれが責任を負うべき何かが外にある"というわれわれの直観を
    われの直観を解明しようとして,観念と事実,言語と事実,心と世界, 捨てること。
    主観と客観,といった区別を引き合いに出す。


    3.1.1 対応説に対して

    ・"真理"は,実在との対応である。即ち,"真なり"は,事実──あ ・"真理"は,うまく正当化された信念に対する褒め言葉に他ならない
    る同質性を文と共有する実在のかたまり──との対応に因る。"真なり 。
    "という言葉は,何らかの現存する事態──つまり,"真なる信念を持 信念と世界との間には,"真ならしめられる"という関係はない
    つ者はなぜ事をなすのに成功するか"といった類いのことを説明するよ 信念を信念ならざるものと比較してそれらが合致するかどうかを知るこ
    うな事態──を,指示する言葉。 とはできない。
    整合性以外の何らかの試金石を見出そうとして,自分たちの信念や自分
    たちの言語の外部に出ようとしても,それは不可能である。
    "実在との対応"という概念は,トリヴィアルな,分析を要しない概念

    ・真理は対応であるという直観は,解明すべきもの。 ・真理は対応であるという直観は,根底からなくしてしまうべきもの
    ・実在は"本性"を有しており,それに対応するのがわれわれの義務で ・《先行して存る制度の上で,対象の刺激に反応する》という仕方で,
    ある。 われわれは信念を抱く。
    真なる信念とは,"事物の本性"の表象。 真なる信念とは,うまく事をなさしめる行為規則。
    対象は,われわれの抱くべき信念を示唆する。
    ・"図式と内容の二元論": ・真理を,何かと同一視されるようなものと見てはならない。
    "心"とか"言語"とかの類いは,世界に対して"適合"とか"組織化 文を,何ものかによって"真ならしめられる"ようなものと見てはなら
    "とかいった関係を持ち得る。 ない。
    言語の諸部分と言語ならざるものの諸部分との関係を分析するような"
    真理論"は,それだけで既に,誤った道を歩んでいることになる。
    つき合わせ(対応)が姿を消せば,表象も姿を消し,"図式と内容の二
    元論"も姿を消す。
    ・知識と意見は,("真理"に対する"実在との対応"の解釈により) ・知識と意見は,("真理"に対する"うまく正当化された信念に対す
    区別される る褒め言葉としての真理"の解釈により)区別されない


    3.1.2 "客観性"観

    ・"客観性"は,"真理"に基づく。 ・客観性"とは"強制によらない合意"のことであり,特に,間主観性
    である。
    "客観性"の意義は,自文化中心主義のオリエンテーションの下で捉え
    られるべきもの。
    ・連帯を客観性に基づける。 ・客観性を連帯に還元する
    単なる社会的正当化ではない,自然=本性的正当化を要請する。
    そのための認識論の構築を図る。


    3.2 合理主義,理性主義に対して

    ・"客観的真理","実在との対応","方法","規準"等が"合理 ・"合理的"とは,"正気の"とか"分別のある"という意味の言葉。
    性"を説明する。合理性とは,規準的合理性のこと。 合理性とは,市民的教養性 civility のこと。
    ・生得的合理性と文化的適応の産物とを区別する。 ・歴史主義,反普遍主義:
    永遠の理性真理と一時的な事実真理を区別する。 何が合理的であり,何が狂信的であるかは,ある集団に対して相対的に
    しか決まらない。
    われわれの出発点は歴史的出来事でしかない。
    われわれは徹頭徹尾,中心のないものとして,歴史的偶然として,自我
    を見ることができる。
    ・人間に自然本性的中心が存在していることから,普遍的合意は可能 ・人間は中心のない信念と願望の網目であり,その語彙と意見は歴史
    である。 的状況によって決定される。
    啓蒙主義──自然や理性に訴えて,自分自身を伝統と歴史から解放する そうした二つの網目の間には十分重なり合うところがない。特に,普遍
    。 的合意の可能性はない。
    ・政治理論の諸目的を達成するには,歴史に優先し先行するような本質 ・独立した形而上学的,道徳的秩序に関する真理を探究するものである
    をもつものとして自分自身を捉える必要がある。 限り,哲学は,民主社会における政治的正義観念の有効な共通基盤を提
    供することができない。
    公の秩序について熟考し,政治制度を確立する場合には,哲学的探究の
    多くの標準的話題を括弧に入れる必要がある──《同じ話題について,
    よりよい哲学的見解を形成する》のではなく,《これらの話題を快く無
    視する》こと。


    3.3 科学主義に対して

    ・超科学か単なる普通の科学のいずれかが,われわれの必要とするもの ・方法の介入する余地のないものに関して,方法的であろうとする試み
    を与えてくれる。 ──特に,世界の様々な断片を互いに関係付けるためのテクニックを,
    重要なのは,手続き(弁証法的,帰納的,仮説−演繹的,分析的,とい "周りの世界を宇宙として想像"しようとする試みに持ち込もうとする
    ったような)を厳格に遂行するという意味で,"科学的"であること。 試み──の阻却。


    3.4 "探究"観

    ・探究の目標は,真理に到達すること──既に存在しているものを発見 ・探究の目標は,〈強制によらない合意〉と〈容認し得る見解の相違〉
    すること,先在する何ものかの正確な像を得ること。 との適当な混合物を獲得すること。
    探究は,〈自由に獲得される合意〉以外の目標を持たない。
    自己創造としての探究。
    ・人間本性の内に常に存在してきた恒久的で深遠な何かを表現する。 ・人間としてのより一層興味深い在り方を与える。
    ・世界のどのような特徴が"真なり"によって指示されるか──これを ・言語ゲ−ムを外部から観察する者が"真なり"をどのように使用する
    問う。 か──これを問う。
    ・"ソクラテス主義":
    理性の言うことに進んで耳を傾け,あらゆる議論を最後まで傾聴する人
    は,誰であろうと,真理を会得することができる。
    人間の自我は自然本性的中心(神的火花,もしくは"理性"と呼ばれる
    真理を追う能力)をもっており,時間と忍耐力とがあれば,立論はこの
    中心にまで到達する。
    ・認識原理を定式化する。 ・一層有用な道具を与える。
    "科学的方法"を抽出する。 予測と制御の目的に役立つ語彙を増殖させる。
    一層正確な表象を与える。
    ・理論的問い。 ・実践的問い。
    ・哲学的伝統の論じてきた認識論的問題や形而上学的問題を,明確に定 ・哲学的伝統の論じてきた認識論的問題や形而上学的問題を,解消する
    式化し直す。 (そのような問いが立てられないようにする)。
    ・規準の適用により問題を解く。 ・問題がもっとうまく解決できるよう信念の網目を絶えず編み直し,そ
    れでうまくいくかどうかを見る。


    3.5 歴史観

    ・予定された目標──予め何らかの仕方で設けられた目標──に向かう ・種の自己創造──際限のない自己再定義の過程──として,"人間の
    過程として,"人間の進歩"を捉える。 進歩"を捉える。
    ・歴史とは,非人間的実在との正しい関係に入ろうとする人間の試みが ・歴史とは,人間が次第に複雑なものになっていく過程。
    次第に成功をおさめていく過程。
    ・探究は一点に収斂する運命にある。 ・過去に関する物語は,後知恵を使えば,進歩の物語として語ることが
    可能である。
    このことは,外で待っている目標に自分たちがより一層近づいたことを
    ,意味しない。
    ・探究は収斂すべきである。 ・探究を収斂すべきであると考える理由はない


    3.6 言語観

    ・非言語的盲目性を,事実──文の真理──に移すことを試みる。 ・非言語的盲目性を事実──文の真理──に移すという発想は,阻却さ
    〈白紙の全き受動性〉に近づく方法を,求める。 れるべきもの。
    ・われわれの信念や理論や言語や概念は,われわれと世界の間に挿入さ ・言語行動は,道具の使用である。
    れたクッション──因果的な力の効果を緩和し,所与の堅さから身を守 われわれの信念や理論や言語や概念は,宇宙の因果的な力を把捉し,そ
    るためのクッション──である。そしてこれが,われわれから対象を隠 れにわれわれの欲することをさせ,われわれ自身と環境とをわれわれの
    してしまうヴェールになる。 望みに合うように変えるための,一つの手立てである。
    理想言語や理想的経験理論は,実在の盲目的衝動をできるだけ直接的に
    言明や行為へと翻訳していく,極度の薄いクッションである。
    人類が宇宙を扱うのに使用してきた言語の内のあるものだけが,宇宙の
    好む言語──即ち,ものをその繋ぎ目で切るような言語──である。
    ・プラトン的な夢の保持:
    《ある新たなジャーゴンは,古いジャーゴンにできなかったことが,(
    いまやいつでも)できる体制にある──即ち,意見や慣習や歴史的偶然 ・古いプラトン的な夢に逆戻りしないよう,「哲学的な深さ」を避ける
    性を払拭して,われわれを直接事物そのもののところに連れていくこと よう,そして,その時代のこまごました個々の危険に目を向けるよう,
    ができる》 努めなければならない。


    4 反-心理主義

    4.1 ライルの論理的行動主義
     ライル(G.Ryle)は,心理主義を"カテゴリー錯誤"の理由で阻却しようとする。即ち,行為を"心"を原因とする因果関係で説明しようとするとき,そこにはカテゴリー錯誤が生じているということである。
     ライルは,"心"を行動の傾向性と解釈する。このとき,"心と行動の因果関係"は"行動の傾向性と行動の因果関係"ということになる。そしてそれは,"傾向性"──〈事態−行動〉の連関"1)──を,"行動の原因"として,行動と同じオーダーの事態として捉えるということである。これはカテゴリー錯誤である"2)。
     "心"を行動の傾向性と解釈して,心理主義をカテゴリー錯誤として阻却するライルの立場は,論理的行動主義と呼ばれる。

    (註1) "もし状況が・・・・ならば・・・・のような行動が発現する"という形の文(仮言命題)で表現されるところのもの。
    (註2) ライルはこのカテゴリー錯誤を,つぎのように喩えてみせる:
    大学内の個々の建物や施設と並んで,"大学"と呼ばれるものがあると思うこと。
    (このカテゴリー錯誤は,類概念をそれの要素概念と同列におく錯誤──タイプ錯誤──に準ずる。)ライルがここで言おうとしているのは,心というものを,心(傾向性)の個々の発現たる物理的に特定可能な存在者と同列に考えてはならないということである。

    4.2 《心=傾向性》
     ライルの《心=傾向性》の認識は,つぎのようになる。
     先ず,"心"は探して求められるようなものではない。存在するのは,"心"ではなく,"心"について語るという生活形態である。そして"心"について語るとき,ひとは"心"について語っているのではない。単にその言表によって或る状況を展開しようとしているに過ぎない。
     よって,"心とは何か?"という問いに対する正しい答え方は,"心"について語るという生活形態がどのようであるかを述べることである。実際,"人の心について語ることは,端的に言って,人の生を構成する出来事が秩序づけられるある仕方について語ることに他ならない"(Gardner,1985,pp.64,65)のである。
     "心"の述定がこのように捉えられるとき,それは内的な出来事の報告ではなく,行動に関する hypothetical あるいは semi-hypothetical な言明ということになる(Ryle,1949,pp.50,86-89)。即ち,
    《心的状態について語っているとされる言表は,心的事態の報告ではなく,行動の傾向性の述定である》
     ライルが"心の述定は行動の傾向性の述定である"と言うとき,それは"心"の述定の意義を述べていると理解されるべきである。実際,"心"の述定は行動の傾向性──"事態−行動〉の連関──の述定としてなされているわけではない。しかし,それの意義は"行動の傾向性の述定"である。
     さらに,《心=傾向性》と規定することには,
    《"心"は〈事態−行動〉の連関のことば(仮言命題:"もし状況が・・・・ならば・・・・のような行動が発現する")で述べられねばならない》
    という含意,言い換えると,
    《"心"を語っているとされる言表は,"もし状況が・・・・ならば・・・・のような行動が発現する"という形の言い回しに代えられる》
    という含意はない。
     ライルは,心理学的行動主義(後述)とは違って,"心"を(仮言命題の形で)操作的に定義しようとしているのではない。実際,"心"を語る言表と仮言命題の関係は,前者が後者で言い換えられるというものではなく,前者が後者を生成する(しかも反省の時点で)というものである"1)。"心"の操作的定義は不可能であり"2),ライルがこれを退けるであろうことは明らかである。そもそもライルにとって,"心"は"科学的"に論が展開されねばならないような対象ではないのである。

    (註1) したがって,P.Geach のつぎのような論難は,ライル批判(ライルを困らせるもの)にはならない:

    [according to Ryle] we are invited to regard a statement that two men, whose overt behaviro was not actually different, were in different states of mind ...as being really a statement that the behavior of one man would have been different from that of the other in hypothetical circumstances that never arose.(Geach,1957,p.23)

    Geach のライル解釈:

    When Ryle (1) explain a statement of an actual difference between two men's mental states as really asserting only that there are circumstances in which one would act differently from the other, and apparently (2) holds that this could be all the difference there is between the two, he (3) is running counter to a very deep-rooted way of thinking. When two agents differ in their behavior, we look for some actual, no merely hypothetical, difference between them to account for this ...
    (Geach,1957,p.23)

    ((1),(2),(3) は筆者)では,(1) と (3) は正しいが,(2) は誤っている。
     Geach の例は,ライル批判の一つの顕著な型を示している。即ち,ライルの主張には《Pに対して一つの仮言命題が一意に対応する》が含意されていると見なし(誤解し),これを論難するというものである。
    (註2) 実際,"心"を語る言表Pを仮言命題の形に述べ直すとすれば,一つの仮言命題で言い尽くせないことは明らかであるから,仮言命題の連言の形で述べるということになる。これらの仮言命題は,Pの〈外延〉("もし状況が・・・・ならば・・・・のような行動が発現する"のレパートリー)の表現になるものである。しかし,Pの〈外延〉は,予め定まっているものではなく,生活において生成される。しかも,連言の表現では,各仮言命題が蓋然性の余地がないまでに厳密にされていなければならないが,このような事態は,不可能であると言う以前にナンセンスである。

    4.3 "心"の探究
     ライルは,心理主義批判──"カテゴリー錯誤"を指摘する批判──において,
    《行動は,事態と〈事態−行動〉の連関の二つを理由として説明されるべきものである》
    と述べていることになる。これは,事態と〈事態−行動〉に分離規則──"aとa→bからbを導く"──が適用されて行動が導かれる,という図式である。
     ライルは〈事態−行動〉が"心"の身分であると見なす。そこで,"心"を原因とする因果関係で行動を説明することは,(行動の自己言及を含んでしまう)カテゴリー錯誤ということになる。
     しかし"カテゴリー錯誤"の批判は,〈事態−行動〉の連関に説明を与えようとする試みの阻却に及ぶものではならない。"カテゴリー錯誤"の批判で,ライルは,行動の原因としての"心"の概念を阻却し,"心"を〈事態−行動〉として身分づけるところまで来た。したがってライルは,むしろ,〈事態−行動〉としての"心"の探究に道を開いたと言える。
     しかし,この探究にライルが抵抗することは明らかである"1)。またわれわれにとっても,ライルに共感することは難しくない。実際,〈事態−行動〉の連関を物理的に説明するということは途方もないことである"2)。ある人がこの探究を途方もないことと考えずに探究を試行しようとしているとしたら,われわれは,その人の考えには何か重要なものが欠落していると考えざるを得ないのである。
     しかしそれにしても,
    《"カテゴリー錯誤"の論法は,"心"を探し求めようとする発想一般を阻却することには使えない》
    ということは,認めねばならない。しかも,傾向性としての"心"を物理的に説明するという発想は,傾向性としての磁性を物理的に説明するという発想と同型である。そして後者が実現されていることを思えば,前者を阻却する理由はない。また,阻却するにしても,その理由は"実際上不可能"であって,決して"錯誤"──"カテゴリー錯誤"とか"デカルトの神話("機械の中の幽霊のドクマ")に囚われている"──ではない。

    (註1) "人がどのようにして何かを見たり,理解したりするのかをめぐる論争については,もしそれが何らかの内的な理解のメカニズムや知覚のメカニズムの要請を含むならば,自分はそれには関心がないとライルは明言している。・・・・ライルは,概念的な問い(「人が何かを理解したと報告することが見込まれる状況とはどのようなものか」)に対する,内的なメカニズムに訴える回答(「私はある情報をある仕方で処理したので,あることを理解した」)に反対を唱えた。
    彼の見解によれば,(デカルトやカントの流儀で)内的なメカニズムを要請しても,われわれの理解は一歩も前進しないのである。ライルは,もし問われたとしても「表象のレベル」を受け入れる理由など何一つ認めなかったことであろうし,一つの科学のすべてを,彼からすればそもそも要請することの正当性が疑わしいスキーマや規則や表象のような「内的存在者」を基礎にして打ち立てようという今日の努力に対しても共感することはなかったことであろう。"
    (Gardner,1985,p.65)
    (註2) 例えば,〈事態−行動〉における"事態"には,"・・・・の国で・・・・の事件が起こったというニュースに出会う"のようなものが代入されるのである

    4.4 論理的行動主義と心理学的行動主義
     "心"の実体論を阻却する方法論としてライルが示したもの──即ち,"心"に対する"行動の傾向性"の解釈──は,"論理的行動主義"と呼ばれる。
     これに対し,心理学の方法論としての"行動主義"があるが,それは,文法的幻想を阻却して心理学を科学化することを理念とする。表象主義に代表される文法的幻想が〈内〉に直接言及しようとするのに対し,行動主義は〈外〉の記述において〈内〉が暗示されるにとどめる。
     例えば,能力は,刺激Sに対して反応Rを返す〈コト〉──"傾向性(disposition)"──とされる。そして,この〈コト〉が〈モノ〉化されないよう戒める。何故なら,そのような〈モノ〉は"機械の中の幽霊"(Ryle)であり,端的に存在しないから。
     心理学の行動主義は,"心"をS-Rの形式で操作的に定義しようと試みる点において,さらにS-Rで定義しようとする"心"のカテゴリーのうちに("傾向性"とともに)"意識作用"も含めていることにおいて,ライルのオリエンテーションを極端化したものになっている。──既に述べたように,ライルにおける"心"とS-Rの関係は,
    《"心"はS-Rが現出する潜在性である(したがって,S-Rが現出していないからといってこの現出の潜在性としての"心"がなくなるわけではない)》
    というものである;さらに,この潜在性としての"心"は,(know that の形ではなく)know how の形で──即ち,生活の中での説明形式として──われわれの知るところのものである。
     行動主義に対する批判は,大きく二通りである。一つは,S-Rによる操作的定義の限界および定義自体の恣意性を突く形のものである。そしてもう一つは,行動主義が"心"の実体論を教条的に阻却している点を論難する形の批判である。

    4.5 意識状態
     ライルは,"心"を行動の傾向性と規定することで,"意識状態"を"傾向性"に還元する立場を引き受けたことになる。そのため,この還元を不自然とする論難を受けることになる。
     因に,ウィトゲンシュタインは,"心の記述"と言うときの"心"に対し,"意識状態"と"傾向性"の区別を立てる:

    私は「意識の状態」について語りたい。そして,ある絵を見ているということ,ある音を聞いているということ,ある痛みを感じているということ,ある味を味わっているということ,等々,を意識の状態と呼びたい。
    私はまた,信じているということ,理解しているということ,知っているということ,意図しているということ,等々,は意識の状態ではない,と言いたい。
    もし私が後者のそれらのものを差し当たり「ディスポジション」と呼ぶならば,ディスポジションと意識の状態の相違は,前者は,意識が中断したり注意がそれたりしても,中断しないということである。(Wittgenstein,RPP,vol.2,§401)

    確かに,"意識状態"を否定することは不自然である。しかしまた,"意識状態"は,"事実か否か"という形で問われるものではない。勿論,これを実体として取り出そうとする試みは成功しない:

    ... Suppose everyone had a box with something in it: we call it a "beetle". No one can look into anyone lese's box, and everyone says he knows what a beetle is only by looking at his beetle. ... But suppose the word "beetle" had a use in these piople's language? --- If so it would no be used as the name of a thing. The thing in the box has no place in the language-game at all; not even as a something ...
    .... if we construe the grammar of the expression of sensation on the model of "object and designation[表記]' the object drops out of consideration as irrelevant.
    (Wittgenstein,PI,§293. Cf.PartU,p.207)


    5 コネクショニズムとPDPモデル

    5.1 コネクショニズム
     80年代になってから,人工知能の情報処理過程を(これまでのフォン・ノイマン型の逐次情報処理──直列処理──コンピュータのアーキテクチャに依るのではなく)人間の脳の神経回路をモデルに実現しようとする立場が,起こってきた。これがコネクショニズムと呼ばれるものである。
     コネクショニズムの主張には,AIを人間に似せたいという欲求と,人間の機能の実現のためにはAIを人間に似せる必要があるという認識が,交錯している。そしていずれによっても,計算主義──逐次処理型コンピュータの方法──が捨てられることになる。即ち,人間認知システムの制約に対応することができない(人間に似ていない)という理由で"1),また,ある種の人間的な機能の実現には計算主義では追いつかないという理由で"2),計算主義が捨てられる。
     コネクショニズムが起こる前の認知科学においては,計算主義──人間に似ていないコンピュータによる"コンピュータ・シミュレーション"──が,機能主義によって合理化されていた。この合理化は,"計算主義では人間的な機能の実現には追いつかない;問題はシステムそのものの設計にある"ということが認識され,コネクショニズムが台頭するとともに,効力を失う。
     コネクショニズムと機能主義は,《メカニズム指向対メカニズム閑却》という形で対立するのであり,《ボトムアップ対トップダウン》の形で対立するのではない。実際,コネクショニズムの実践には,ボトムアップとトップダウンの両方がある。
     コネクショニストが考える情報処理は,"並列分散処理 parallel distributed processing (PDP)"である。そして,並列分散処理の実現として考えられているコンピュータが,所謂ニューロ・コンピュータである。
     "分散"には,先ず"項目の分散的表現":
    (1) 一つの項目が,いくつものユニットに分散されて表現されている
    (2) 一つのユニットは,複数の項目の表現にかかわっている
    の意味があり,そして分散的表現をそのまま並列に処理するというのが"並列分散処理"の意味である。
     ここでは,コネクショニストの主張を以下のように要約しておく:

    ・直列情報処理では,コンピュータの性能の上で,人間の内的なプロセスのシミュレーションに限界がある──実際,極めて限定された形式のタスク(特に推論形式の問題解決)がシミュレートできているに過ぎない;
    ・しかも,人間の脳の働きとは機能が余りに違うモデルによるシミュレーションは,人間の内的なものへのアプローチではあり得ない;
    ・人間の脳の働きは,並列処理である;
    ・しかも,直列処理では困難であったシミュレーションが,並列処理のコンピュータでは可能になるかも知れない。

    (註1) 例えば,一つのことをなす処理のステップ数が人間の脳とコンピュータで著しく異なる,等。
    (註2) 例えば,フレーム問題を惹起する機能。フレーム問題は,情報処理を記号主義/計算主義的に構想するところで起こる。人間(そして動物一般)において"フレーム問題"が問題にならないのは,情報処理が記号(表象)計算ではないからである。実際,並列分散処理システムでは,それの思想により,フレーム問題を考えることができない。

    5.2 PDPモデル
     コネクショニズムは,PDPモデル(コネクショニスト・モデル)において実現される──《コネクショニズムに導かれてつくられたPDPモデルは,まさにそれが成功することにおいてコネクショニズムを主張している》という意味において。
     並列分散処理のアーキテクチャは,ニューラル・ネットワークである。各ユニットが,刻々と変化する他のユニットからの出力を受け取って自分の内部状態を変え,出力する。ネットワークの動作は,ユニット間の結合状態(結合の重みとユニットの閾値)で定まる。

    5.3 反-表象主義-的モデル
     PDPモデルは,反表象主義-的モデルである。
     実際,コネクショニズムは,組織/メカニズム指向に立ち,かつ,逐次処理コンピュータ・アナロジーによる表象主義/計算主義的トップダウン・アプローチに対する否定をこの組織/メカニズム指向に含意させようとするものである。この結果,PDPモデルは脱-表象,脱-逐次処理となっている。そしてこのモデルの成立は,そのまま,逐次処理コンピュータ・アナロジーによる表象主義/計算主義的トップダウン・アプローチに対する否定の意義をもつ。
     コネクショニズムのトップダウン・アプローチは,表象主義に即いている機能主義のそれとは本質的に異なる。実際それは,"デカルトの小人"の無限後退の問題を免れている。
     確かに,研究者の意図はある機能の実現にあり,そしてその機能は表象で把握されているに違いない。しかしこの表象は,PDPモデルにはのらない。この意味で研究者の意図は裏切られていることになるが,まさにそうであることによって,コネクショニズムのトップダウン・アプローチは"デカルトの小人"を免れているのである。機能主義のトップダウン・アプローチでは,研究者は一貫して表象を支配している。これに対し,コネクショニズムのトップダウン・アプローチで研究者が支配しているのは,表象とは異なるパラメータ群である。コネクショニストの意識に表象主義の否定ということがなかったにしても,PDPモデルは自らの成立において表象主義を否定しているのである")。
     コネクショニスト・モデルは,行動主義と相性のよいモデルである。実際,"神経細胞"間の興奮伝達の関係布置は傾向性であり,それは"能力","知識","技術"といったことばで表現される傾向性の直接的表現になる。──表象主義的モデルの場合であれば,例えば"知識"は,情報ネットワークといった形で展開されることになる。

    (註) 但し,PDPモデルが表象を免れているからといって,直列処理(逐次処理)に表象の原因があるわけではない。"処理型"と"表象"は別の記述レベルに属する。

    5.4 モジュールの否定
     従来の表象主義的モデルでは,"内的なもの"は,ブロック・ダイアグラムの中の一ブロックとして,あるいはサブシステムとして,示すことができた。例えば,知識の獲得,知識の変容が,図の上で,ブロックを付け足したり,ブロックのリンクの線やプロセスの流れを示す矢線を様々に書き込むといった形で,表現されてきた。
     実際,従来のAI研究では,このような表現をハードウェアおよびソフトウェアの設計に活用し,その手法を洗練してきたわけである。
     ところが,PDPモデルは非階層的単一システムであり,"内的なもの"のモジュール(コンポーネント)──例えば"知識"──は所在がない。神経細胞の関係性の布置から知識に対応する関係性の布置を(あたかもノイズを除去するように)取り出すことは──技術的に不可能という理由からではなく,原理的に無意味という理由で──不可能である。
     このように,PDPモデルは,ブロックチャートの否定である。それは,"もともと,モジュール(分節されるべきもの)などはなかった"と主張しているのである")。

    (註) 特に,PDPモデルを,《ブロックチャートの各モジュール(コンポーネント)が,関係性の布置としての分節のない一枚のネットワークに融合したもの》と見るのは,ミスリーディングである。単に,はじめから分節がないのである。

    5.5 反-機能主義-的モデル
     表象を支配しているとは,"コンピュータが何をしているかを言える"ということである。逆に,表象をもてないということは,"コンピュータが何をしているか言えない"ということである。よって,PDPモデルは,"何が起こっているかがわからない"システムである。
     さらに,PDPモデルは単一システム・モデルである。モジュールをもたないこのシステムは,"ブロック・ダイアグラム"の形の把捉も許さない。
     このシステムでは"何が起こっているかわからない"という事実は,反照的に,"システムで起こっていることがわかる/わからない"という概念を問題化する。
     ブロック・ダイアグラムやフローチャートでなければわからない/明らかでないのは,《ブロック・ダイアグラムやフローチャートとしてわかる/明らかにする》ということが正にわれわれの"わかる/明らかにする"だからである")。
     機能は,解釈によって決められるのみである。そしてこのような"機能"の理解は,本来機能主義のものである。しかし,機能主義は,表象主義/計算主義的システム(逐次処理型コンピュータ)を専ら対象にすることにおいて,実は機能を先取りしていたのである。PDPモデルは,"何が起こっているかわからない"システムに対してはもともと機能主義の出る幕はない,ということを暴露する。機能主義が専ら人間に似たシステムを前提するものであることを,暴露する。
     われわれは,"それの機能を知る"という形でシステムに近づくのではなく,"それの傾向を知る"という形でシステムに近づく。これが本質的な点である。
     PDPモデルが示唆するパラダイムは,この意味の不可知論である。PDPモデルは,ウィトゲンシュタインのことば:"知り得ぬものに対しては,沈黙せねばならない"の中の"知り得ぬ"の意味を明らかにしたことになる。

    (註) パラメータを把捉することは,われわれの"わかる"にはならない。

    5.6 PDPモデルの教育的示唆
     いま,ニューラルネットワークとわれわれの間の通約不可能性は,基本的に,学習者と教師の間の通約不可能性と同型であると考えてみる。このとき,教え方が悪いのかそれとも相手のアタマが悪いのかについては,通約不可能性により判断が立たないということになるから,命題:
    《教師は学習者の可能性を知り得ない》
    が導かれる。
    《教師は生徒が学んでいるものを知り得ない》
    《教師は生徒の言おうとしていることを知り得ない》
    といった命題も導かれる。
     この不可知論は,
    "それでも教師は生徒を知っている"
    という事実と排反するものではない。実際,この不可知と可知は,ライル/行動主義の謂う"傾向性"の観点から,両立させることができる。即ち,教師は──通約という方法に拠ってではなく──傾向性を知るという形で生徒を知るのである。
     こうして,PDPモデルは行動主義と一緒になることで,学習主体モデルとして十分なものになる。
     子どもに対する教師の対応は,経験主義的である。そして経験主義──傾向性の信用──は,また行動主義である。そして行動主義はこれまでモデルをもっていなかった。したがって,コネクショニスト・モデルは,教育実践者の現実のあり方をそのまま肯定するはじめてのモデルと言える。同時に,われわれは教育における〈経験〉がはじめて科学的主題になった一つの形態を,ここに見るのである。

    5.7 通時態モデル
     ニューラルネットワークは学習によって成長し"),そしてその過程は非可逆である。この意味で,PDPモデルは通時態モデルである。
     但し,ニューラルネットワークがその成長において人間に近づくということは,原理的にあり得ない。ニューラルネットワークには,社会的コミットメントというものが欠けている。これが"原理的"の意味である。

    (註) 但し,有力な教授/学習理論が得られているわけではない。またその見通しに明るいものがあるわけでもない。

    5.8 人間の原理的不可知性
     PDPモデルは,反照的に,人間の原理的不可知性を示唆する。例えば,"進化の過程で獲得された学習メカニズムの上に,学習が可能になる","生物の歴史は,遺伝子(DNA)上の遺伝情報の変遷の歴史と見ることもできる","運動機能は,出生後に長い時間をかけて,脳が試行錯誤で学習してきたもの"といった一般的な言い方はできるが,各主題についてこれ以上のことは言えそうもないということが,示唆されるのである。

    "もちろん神経系の構造は進化によって発生してきた。しかし個体の一生のうちに起こる構造変化ではなく,進化そのものを復元しようとすると,われわれは変化のメカニズムについて,さらに僅かな知識しかもたない事態に直面することになる。・・・・生物的な進化にかかる時間は長大であり,一つの変化が生じるには百万年単位にわたるカップリングが必要である。・・・・
     人工システムの場合は,進化がそのような遅いペースで進む必要はないという議論がたまに見られる。内部操作は神経系の場合よりはるかに速く,何百万もの「世代」が一日のうちに生産できるというのがその理由である。しかしこれは二つの点から間違っている。先ず自然は直列的に働くわけではない。[個体発生として]高レベルの生体組織が発生するには何日,何年とかかるかも知れないが,[系統発生として]何百万もの個体が同時に同じプロセスを通過するわけである。この高度の並列性をもってすれば,多少の速度向上など問題にならない。より重要なのは,進化が機械の計算速度で進むという見方が,構造的カップリングという基本仮定を無視している点である。生体が媒体に即して生存するための変化が生じるには,その変化が生体の機能に効果を及ぼすための時間が必要である。進化の過程はカップリングが生じる速度で進むのであり,個々の内部変化が生じる速度で進むのではない。・・・・
    われわれが作り得るどのようなシステムでも,進化による変化(あるいは学習)によっては,人間はおろか,ミミズの知能レベルに達することもほとんど考えられない。
    (Winograd and Flores,1986,pp.167,168)

    5.9 伝統的メタファの無効化
     PDPモデルには,パラダイム・チェインジの一環としての"伝統的メタファの無効化"という意義がある。例えば,"分散表現"の概念は,記憶に関する"情報の格納・取り出し","格納の場所"といったメタファを無効にする。

    5.10 先天性-後天性の区分の解消
     内的なプロセスを規定する神経細胞間の興奮伝達の関係は,生体の誕生以前からつくられている。そしてこの関係性には,誕生以前と以降の間に質的な変化はないと考えられる。関係の布置である興奮伝達の関係性は,質的な分節化を本質的に拒むのである。
     したがって,PDPモデルに即く場合,《先天性−後天性》の二分法は成り立たない。そして,先天性と後天性の別を前提していた旧来の本質遡行的な問いは,この二分法の解消とともに無意義となる。

    6 不可知論
     不可知論は,決して忌避すべきものではなく,むしろ科学的態度として受容せねばばならないものである。この認識を欠くとき,ひとは容易に文法的幻想(非科学)に陥る"1)。
     この観点に立てば,ウィトゲンシュタインによる"言語ゲ−ム"の概念の導入は,不可知論的地平の導入と見なせる。その狙いは,ある種の認識論的問題を不可知論に追い込んで阻却してしまうことにある。"言語ゲーム"と身分づけることは,一面では,分析を拒むことに効いている。実際,言語ゲ−ムを分析しようとしたら,《ある時点における言語ゲ−ムは,単一ではなく,無数の言語ゲ−ムの束である》という認識を持たねばならない。そしてこれは,何も述べていないに等しい。
     数学教育学における不可知は"生活者"としての人間についての不可知である。そしてこの"生活者"を不可知としているものは,〈歴史〉である。
     "生活者"は二重の歴史をもつ。即ち,生体としての歴史と社会的存在としての歴史である。さらに,生体としての歴史も,二重構造になっている──即ち,種の歴史(何"臆年?)プラス個の歴史として。
     ひとの行為は,一つの〈歴史の到達点〉の行為である。そしてこの行為によって,ここまでの歴史がまた一つ積み上げられる。わたしがいま為していることは,何"臆年(?)にわたる一つの歴史がいま為していることなのである。
     "生活者"の歴史は,われわれが扱うには,途方もないものである。それは,われわれにとって端的に不可知である"2)。このようなものに"なぜ"は問えない。"なぜ?"は,この場合,拙い問いである。
     われわれができることは,"なぜ?"に説明で答えることではなく,"なぜ?"を"いかに?"に替えて,記述で答えることである。そして,"いかに?"を拒否しかつ概念的説明も拒否する"なぜ?"に対しては,(ウィトゲンシュタインのように)"端的にそうだから"と答える他ない。

    (註1) 不可知論に対立(敵対)するのは,科学ではなく,挑戦的精神を一般的に評価するモラリズムである。
    (註2) Simon は,"nearly decomposable system" の概念を導入して,現実的なシステムの途方もなさは見掛けのものであり,手懐けることは不可能ではないという主張をした(Simon,1962)。実際,この議論で彼は彼自身の計算主義的なアプローチを合理化しようとしたのである。
     即ち,現実的なシステムは,"一定の時間内での発生完了"という制約のために,nealy decomposable ──そして恐らくそれ以上に,階層的──でなければならない;そしてそのようなシステムの機能は必然的に計算的(computational/artificial)である,というのがその理屈である。
     しかし,このオリエンテーションは実効しない。何故なら,あるシステムがわれわれの目に decomposable に見えるとしても,われわれはその見えをわれわれの文法的幻想と区別し得ないからである。実際,表象主義/計算主義を文法的幻想と見なすとき,Simon の実践を一貫して導いているものは彼の文法的幻想であることになる。
     しかも,Simon の理屈には,目的論的である故の奇妙さが伴う。例えば,"雲"というシステムも,nearly decomposable に理解されてしかるべしとなる。