数指導のゴールと方法

宮下 英明     
金沢大学教育学部  

    要約  数指導のゴールの一つに,《"数とは何か?" の問いを自分のものとし,これに答え得る主体》というのをおく。このための数指導は,数使用のノウ・ハウの指導に,数の対象化と,数使用の原理の指導を伴わせるものでなければならない。数の対象化は一つの形式の対象化であり,数使用の原理もまた一つの形式である。こうして,数の主題(一般に,算数/数学科の主題)はすぐれて存在論的なものとなる。学習者はこの主題を通過して一つの世界認識に至る。
     このゴール観が,本論考の第一の論点である。それは,特に問題解決論者のゴール観──問題解決能力の陶冶/一般陶冶──への対置において,論点になる。
     本論考の第二の論点は,ここで立てる数の存在論──関連して,量の存在論──および数/量形式の規定の仕方である。
     第三の論点は,数指導の方法論である。わたしは先のゴール観に対応して,数/量形式の直接的主題化を指導原理とする。教育的方便は,数/量形式の提示形態において発揮されるものとする。逸脱/後退が "教育的方便" の名で合理化されてはならない。この原理の貫徹は,特に現行の指導体系との抵触において,論点となる。


    1 数指導のゴール

    1.1 世界認識
     数指導のゴールの一つに,《"数とは何か?" の問いを自分のものとし,これに答えることのできる主体》というのをおく。このための数指導は,数使用のノウ・ハウの指導に,数の対象化と,数使用の原理の指導を伴わせるものでなければならない。
     数の対象化は一つの形式の対象化であり,数使用の原理もまた一つの形式である。こうして,数の主題(一般に,算数/数学科の主題)はすぐれて存在論的なものとなる。学習者はこの主題を通過して一つの世界認識に至る。
     このゴール観が,本論考の第一の論点である。それは,特に問題解決論者のゴール観──問題解決能力の陶冶/一般陶冶──への対置において,論点になる。
     世界認識に導く問いは,"この主題は何?" である。そしてこれに対する答えは,三段構えになる。即ち,
      (1) 主題を言い表わすことば("何" )
      (2) 主題の使い方("いかに" )
      (3) それが使えるわけ("なぜ" )
    である。特に,"使う" が指導のキー・ワードになる。
     "使う" という形で人は主題を受容していく。これが (2) の段階である。主題の "使われ方" を知らずにそれを受容することはできない。特に,《公理/定義→定理→証明》の流れで算数・数学を学習することはできない。
     "使う" からは "使えるわけは?" の問いが立つ。この問いに対しては〈形式〉のことばで答えることになる── "形式の使用", "その使用の形式"。これが (3) の段階である。そして (1),(2),(3) を通過して,"何?" の問いが答えられたことになる。
     そこで,学校数学のゴールを "世界認識" におくとは,具体的にはつぎのような主体を指導のゴールにおくということである:
      《"何?" という形の問いに戸惑わず,"使う" をキーワードとして答を着実に生成していくような主体》

    1.2 "何?" の問いの難しさ
     算数の任意の主題について,"それは何?" という問い方をしてみる。大人でもたいていは答えに窮する。
     "何?" の問いの困難さは,差し当たり (1)〈構造〉と (2)〈経験〉の二面から説明できる:

    (1) "形式の使用" と言うときのその形式は,結果論である。先ず,〈形式の使用〉がまるまんまある。〈形式〉は〈形式の使用〉の後に結果論としてやって来る。それは《比喩の形の認識に始まり徐々に形式( "本質" )の認識に赴く》という具合である。即ち,"XとはYのようなこと" という形の認識が,Xに対する〈形式〉としての把捉を経て,"YはXの一つの現われ" という形の認識に転ずる。
     しかしこの転換は,一つの飛躍である。実際,"いかに" のレベルにとどまり "何" へ転ずることがないのが,生活者的認識というものである(註)
     例えば,ひとは《"木" の例を知っている》という形で "木" を理解している。しかし,"これもこれも木と呼んでいるが,では一体,木とは何か?" と問われたら,面食らってしまう。
     数学は,言わば,"木とは何か?" の問いの答えになるものを対象として考察しようとする営為の一つである。

    (2) "何?" という形でひとから問われることがなければ,《"何?" という形で自らに問う》ことを知り得ず,そして知らないのでこの自問をしない,ということになる。
     "何?" という問いに対する答えがあることを知らない人は,《学習に窮したときには戻ればよい》ことを知らない人でもある。戻るための自問が "何?" なのであるが,この形の問いを持たないからである。

    (註) 一般に,数学教育の言説においては〈形式〉と〈形式の使用〉の混同── "何?" に応ずる答えと "いかに?" に応ずる答えの混同──が蔓延しているが,この混同にはここで述べたような理由があるわけである。

    2 数の存在論

    2.1 数形式,数の系
     "数" 概念の根拠は,数の道具的使用の諸現象である。生活(世界)における数の使用が先ずあって,"数" がわれわれの対象(われわれにとっての存在)になる。
     "数" の条件は,このような使用に足るための条件である(註)。その条件は,"数形式" として述べ得る。そして,数形式をもつ系──個々の系──が,数の系である。
     数の使用は数の系の使用であり,これも形式として述べ得る。そしてこのような形式の一つに,"量形式" が考えられる。

    (註) 例えば,"系列" としての自然数(形式)の場合,"数える"(計数),"番号を付ける", "識別番号を付ける" といった生活的実践が,これの根拠になっている。自然数の条件はこのような使用に足るための条件であり,実際,この条件がそのまま"系列" という形式の定義("ペアノの公理" )になっている。

    2.2 量形式,量
     量は人の実践──行為──の上に示される。量を対象化することは,人の行為の一定の形式を対象化することである。この形式──実践形式──を,ここでは量形式と呼ぶことにする。
     特に,量は人の行為の原因ではなく結果である。《量という存在が既にあり,それの本質として量形式が抽出される》というのではない。量形式が実体化された相が"量" である。
     認識論的に言えば,量形式で把捉されたものが量である──この意味で,量は量形式の原因ではなく結果である。素材(モノ)に量形式が投げかけられて浮かび上がる像(幻)が量である。量とは,量形式で映し出された素材の像である。
     例えば"長さ" は,机のへりをものさしで測る,机の二つのへりに長さの比を読む,といった実践の形式で映し出される机の像である。
     こうして,素材と量形式が量の契機であるが,形式は,われわれの〈読み〉として,言わばわれわれに属している。対象把捉の道具として,われわれに属している。素材に形式が潜んでいるというわけではない。
     特に,量はモノでもモノの"属性" でもない。
     モノに対して"量" という読みを為すことが,"量の対象化" である。モノに量が読まれることによって,そのモノは"量の現象" (あるいは,この意味での"量の表現" )になる。"量の現象" は実践の結果であり,結果論である。現象の以前に量があるのではない。
     さらに,"量" の読みは投企である。モノに量を読むこと──モノの属性として量を対象化すること──は,ひとの恣意である。量は,モノの含意ではない。ひとが,モノの上に量の読みを投企するのである。
     そこで特に,一つのモノに対し異なる量(カテゴリー)を読むことが可能である。また逆に,異なるモノに同じ量(カテゴリー)を読むことが可能である。
     但し,"恣意" は"自由奔放" を意味しない。"量" の読みの投企は,ウィトゲンシュタインの謂うところの言語ゲ−ムである。

    2.3 形而上学(イデア論)の傾向
     モノ(事象)に量を読み量を対象化するということを一旦為すと,われわれはつぎに,モノを量の表現のように考えるということをする。実際,《モノに量が示されている》という捉え方を反転させれば,《量の表現としてのモノ》という発想の仕方になる。
     実際は,量は〈幻想〉なのであるが,いまや意識の中では,モノが量の媒体ないし量の潜在形態として身分づけられ,〈量=幻想〉が〈モノ=実在〉の上位に置かれるようになる。確固たる対象は量の方であって,モノは偶然的なものとなる──イデア論!
     例えば,物をゴムひもにつるすとゴムひもが伸び,バネの上にのせるとバネが縮むという事態が,重さの表現のように意識される。重さの一つの偶然の現われ(具現)のように意識される。
     "〈実現〉という行為に先立って数/量は存在する" ──即ち,"発見され命名されるのを待っているかのように数/量は存在している"──と考える立場が実在論(プラトニズム)である。
     しかし,強調するが,われわれが数/量を実現する(■作る")限りで,数/量は存在する。実現されなければ数/量はない(註)

    (註) いったん実現された数/量に対しては,《われわれから独立した存在》という見方をすることができる。しかしこれは,実在論とは別のものである。

    2.4 量形式と数形式の関係
     一つの実践形式である量形式は,徹頭徹尾 "数"の使用形式である。そしてそのようなものとして,一つの数の系に一つの量形式が応ずる。
     実際,量形式は一つの数の系の複合形式として理解できる。逆に,一つの数の系は,一つの量形式のすべての因子を与えるものとして意義づけることができる。
     量の性格は,使用する数によって最初から決定されている。例えば"長さ" は,係数として使用する数(通常,実数)が稠密でありアルキメデスの公理を満たす故に,稠密でありアルキメデスの公理を満たすのである。
     一般に,数とその使用の間には,
    (1) 数が使用可能であるように,処理そのものが設計される
    (2) 特定の処理が数の使用という形で可能になるように,数の系が設計される
    という双方向的関係が成立している。この意味で,数とその使用は同時の契機のものである。
     特に,数以前に量があるわけではないし,量以前に数があるわけでもない。量処理に対する数の使用可能性は,数が量処理に使用できるように"数" ないし"量" が設計されているからであり,予定調和である。

    2.5 量の実現
     われわれは"はかりで量を測る" という言い回しをするが,はかり以前に量があるわけではない。実際,量は,《はかりの上の現象に量が読まれる》という形で,測定によって実現する。
     はかりとは,先ず,はかりにかけられるモノ(事態)に対して(量が読まれるところの)現象を現わす装置のことである。
     はかりはこのような装置であることの上で,
      (1) "一つの量(大きさ)" として読まれることになる差異化可能な現象を各素材に対して一意的につくり出し,
      (2) 差異化される個々の現象に名を与え,特定可能にする
    装置のこととなる。

    3 数/量形式の規定

    3.1 数/量形式の恣意性
     数/量形式は,"実在の事実" のように存在するのではない。それは,対象化の一形式である。そして,《対象化は,ある都合にしたがう対象化である》の意味で,数/量形式は一つの恣意性である。
     数/量形式の規定に依存して,数/量が決まる。規定の変更により,何が数/量であるかが変わる。
     例えば,"硬度" を量にするような量形式を考えることは可能である。しかし,代数的構造──加法と倍作用が定める構造──を量形式の含意と考えることにすれば,"硬度" は量ではなくなる。
     本論考では,数/量形式を,
      〈小学校算数からはじまる学校数学で,"数/量" 領域の内容として学習者に課しているところの内容〉
    を説明できる形式であるように,規定する。

    3.2 数の系の特定,数形式の規定
     われわれが既に"数" と呼んでいるものの特定を,数の系の特定と考えるとしよう。
     "数" は一つではない。自然数,整数,有理数,実数,複素数,四元数といったように,色々ある。われわれは,これらを数形式の色々な現われであると考え,これらに通底する形式を"数形式" と規定することにしよう。
     ここでは"数の系" を,集合Nとその上の二つの内算法+(加法),×(乗法)でなる系
(N,+,×)
    でつぎの条件を満たすもの,と定義する:

      (1) +は結合的かつ可換.
      (2) ×は結合的で,単位元1∈N*が存在する.
      (3) +と×の間に左右分配法則が成り立つ:
        ξ×(η+ζ)=ξ×η+ξ×ζ
        (η+ζ)×ξ=η×ξ+ζ×ξ
      (4) 各要素は,+に関して可約;即ち,
        ξ+η=ξ+ζ =⇒ η=ζ
      (5) N*の各要素は,×に関して左右可約;即ち,ξ∈N* に対し,
        ξ×η=ξ×ζ =⇒ η=ζ
        η×ξ=ζ×ξ =⇒ η=ζ
      (6) 任意の要素ξ,ηに対し,要素ζで,ξ+ζ=ηかξ=η+ζとなるものが存在する.

    ここでN*は,Nが零元0── +に関する中立元──をもつときはN\{0},そうでないときはN自身。

    3.3 量形式の規定
     《一つの数の系にそれの使用形式として一つの量形式が応ずる》とする立場から,数の系 (N,+,×) に対する系
((N,+), (N,+,×), ×)
    を量形式と規定する。
     ここで,三つの因子 (N,+),(N,+,×),× は数の系 (N,+,×) から分離したものであり,((N,+),(N,+,×),×) は,
      《第一因子の (N,+) に第二因子の (N,+,×) が第三因子の×によって作用する系》
    と読まれるものである。
     〈量形式を伴う系〉としての量の系は,このとき,((N,+), (N,+,×), ×) と同型な系 ((Q,+), (N,+,×), ×) のことである(註)。存在論的には,素材(事態)の上に浮かび上がる〈形式 ((N,+),(N,+,×),×) をもった像〉である。
     量連関では,"数の使用" とは形式 ((Q,+), (N,+,×), ×) の現出のことである。そしてこのときの数は,量に対する倍作用素であり,量の係数である。量の系 ((Q,+), (N,+,×), ×) に組み込まれているNの要素の身分を言い表わすのに,"スカラ" を用いることにする。

    (註) ここで,(Q,+) の+と (N,+,×) の+は,それぞれQの要素の加法,数の加法として,別のものである。簡単のために同じ記号を使う。
     第三項の × は,"Nの要素によるQの要素に対する倍(作用)" と読まれる。
     また,同型の下 (N,+) の要素1に対応する (Q,+) の要素の呼び名が "単位(量)" である。

    3.4 数の系,量の系の実現
     数/量の系は,構成法の明示という形で実現される。外延としてのそれは,構成法の生成するところのものとして想念される。実際,外延としての数/量の系は超越的概念であり,想念される他ない。あるいは,構成規則の適用のデモンストレーション(具体的にいくつかの要素をつくってみせる)によって示唆されるのみである。

    4 数指導の方法論

    4.1 指導内容
     わたしは,上に規定した数/量形式の直接的主題化を,数指導の内容と定める。教育的方便は,数/量形式の提示形態において発揮されるものとする。数/量形式からの逸脱/後退が"教育的方便" の理由で許されてはならない。
     〈形式〉の主題化は,
      (1) 形式の対象化と
      (2) その形式の道具的使用(註) の形式の対象化
    の二つでなる。
     一般に,算数/数学科の指導は,"道具" そのものと"道具の使用" とを明確に区別するものでなければならない。そしてさらに,"道具の使用" を道具の投企として理解させるものでなければならない。
     数指導においても,〈形式〉と〈形式の使用〉の区別を曖昧にして済ますことはできない。実際,この区別を曖昧にして済むのはしばらくの間であって,後になって色々な形でつけが回ってくる。例えば,"等分して集めること" のように分数を指導してきたことのつけが,分数の割り算の指導のところで回ってくる。
     また,オトナになれば〈形式〉と〈形式の使用〉を区別できるようになる,というものでもない。両者の区別を曖昧なままにした環境で育った者は,最後まで,"何?" と"なぜ?"の両方の問いに対応できない。例えば,"分数÷分数" を説明することはオトナにもできない──〈形式〉の意味でも〈形式の使用〉の意味でも。
     なお,ここで言う形式指向を"公理主義" とか"現代化のリバイバル" のように受け取ってはならない。本義はあくまでも"世界認識" にある。

    (註) "形式=道具" と言うときの"道具" を,"現生活の道具" の発想から救っておかねばならない。例えば,歴史の視点の導入によって価値基準としての現生活を相対化するなど。

    4.2 現行の指導体系との抵触
     数/量形式の直接的主題化は,現行の指導体系と抵触してしまう。
     学校数学での数の主題化は〈道具としての数〉──〈使用されようとする数〉と〈数の使用〉──の主題化であるが,例えば《数−量》の連関の場合,数/量形式の直接的主題化の立場では
      《数を明示的に量の係数(スカラ)として扱うことで数と量を区別し,そして量の係数として数が量の計算処理の道具になるその構造を示す》
    が指導内容になる。
     現行の数指導の内容は,このようではない。そもそも,〈使用されようとする数〉──形式としての数──を主題化しない。批判の意味で言うのではなく,現行の数指導体系は《数と量の混同》を指導指針にしていると見なせる。実際,《数と量の混同》によって〈形式〉回避の綱渡りをしているわけである。
     しかしもちろん,本当に回避できているわけではない。〈形式〉回避は場当り的であり,一つの理論を貫徹しているというものではない。このことは十分承知しておかねばならない。

    4.3 指導方法論
     数/量形式の直接的主題化は,現行の指導体系と抵触する。そしてこのような場合には,提起しようとする指導の具体的像とそれの実現可能性が,(指導理念や原則以前に)先ず問われなければならない。実際われわれは,未だ現われていない"指導" を議論しようとは思わない。
     この問題化を,指導方法論の問題化と捉らえよう。
     実際,指導方法論は詰まるところ各論として考える他なく,さらに,指導案の上に示されるものとして考える他ない。そしてこの意味で,指導案を示すことと指導方法論の提起は同じことである。
     なお,数/量形式の直接的主題化の指導方法論は,本質指向の指導の方法論として,特に以下の要件を満たすものでなければならない:

      (1) 学習は,自ずと惹かれるものでなければならない──《ひとは本質の探求そのものに惹かれる》という意味で。
      (2) 学習は,平易でなければならない──《平易でなければそれは本質ではない》という意味で。
      (3) 学習は,明るく,楽しいものでなければならない──明るく,楽しい相で現われる本質がここで指向されているはずだから。

     ここで,"魅力","平易","明るい・楽しい" は,もちろん人により受けとめ方が異なる。しかし個々の授業設計においては,良識的に,ある一線に落ち着くであろう。

    4.4 指導案
     (当日資料)