Up 「数学教育学」とは何か? 作成: 2008-08-19
更新: 2011-10-20


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 要 旨

「数学教育学」とは数学教育を論ずる言語行為のことであり,よって,「数学教育学」とは何か?を考えることは,「数学教育学」の言語は何か?を考えることである。

学会は,「数学教育学」の言語の制御・管理を企図する。
この企図は,一つに,特定の形の言語の囲い込みとそれ以外の言語を「ルール逸脱」にするという形になって現れる。
逸脱の言語は自ずと学会からいなくなるので,学会による「数学教育学」の制御・管理は,得失のトレード・オフをやっていることになる。そこで,このトレード・オフの妥当性が論点になる。

学会が「得」と定めるのは,グローバル・スタンダードの陣営に加わること。そしてこの方法として,「リサーチ」フォーマットをルールにする。
ルール逸脱の言語ということで「失」になるのは,実感論・経験論。「数学教育学」論も,この類になる。

研究スタイルは研究対象に応じる。
数学教育は複雑系である。
「リサーチ」フォーマットは,対象理解の形を「分析と再構成」に定める哲学──根本に,言語写像論/表象主義──に拠っている。
これは,複雑系が相手のときは,「塵を積んで山をつくるプロジェクト」になってしまう。実際,これが複雑系の複雑系たる所以である。

複雑系を相手にするときの言語は,実感論・経験論になる。
よって,「数学教育学」から実感論・経験論をなくすことはできない。


0. 緒 言

数学教育学の最初の問題は,「数学教育学」とは何か (何をすることか)?である。 実際,「数学教育学」とは何か?の問いを閑却した体(てい)で数学教育学を行うというのは,論理の上で,矛盾である。

数学教育学は,数学教育についての知見をつくる営みであり,それは言語としてアウトプットされる。 よって,「数学教育学」とは何か?の問いは,「数学教育学」とはどのような言語をつくることか?という問いになる。

数学教育の知見を述べる言語の形として実際的であるのは,実感論・経験論である。 しかしこの言語は,学会が「リサーチ」を論の形とするルールを定めるとき,所在を失う。
では,「リサーチ」が実感論・経験論の上位互換になるかというと,まったくそうでない。 それどころか,「リサーチ」の言語は,数学教育という複雑系を相手にするときの言語としては,ひどく貧困である。
そこで,「数学教育学」とは何か?を言語の問題としてこれに答えるときには,「数学教育学における実感論・経験論の位置づけ」が作業の中心になってくる。

本論考は,以上要約して述べた問題構造を論じるものである。


1. 「数学教育学」の基本骨格

1.1. 研究の内容と方法

数学教育学は,(主題を大きく分けて) つぎの二つを研究する:
1. 数学学習の意義
2. 数学教育 (数学学習の意義を実現するものとして) の方法
また,研究の方法論に,つぎの「理論的」と「感覚的」の2タイプがある:

   理論的       感覚的   
研究対象に対する
<系>としてのとらえ
論理系(註1) 複雑系
研究・論述の方法 分析と再構築(註2) 実感論・経験論
註1 対象を,単純系がモジュールになっている論理的構成として見る。
註2 対象を表象へと分析し,表象によって再構築する (表象主義)。 この立場につくとき,「実験・理論構築・推理,実証」が方法として立つことになる。

1.2.学会

学会は,「数学教育学」の言語の制御・管理を企図する。
具体的には,つぎのことを行う:
1. 研究の品質管理
2. 品質を判定するための規準づくり
  ・論文フォーム
  ・論文受理のレフリー制


1.3. 研究フォーマット

学会は,学の「グローバル化」として,欧米化を志向する。
すなわち,研究の内容・方法において,欧米の先端に並び歩調を合わせることを,目指す。

「欧米化」とは,欧米方言の採用のことである。
確認:欧米も一つのローカルであり,グローバルであるわけではない。

このときの「方言」は,言語を「分析と再構築」に使うというものである。
──欧米の学の伝統は「分析と再構築」であり,これのバックボーンとなっているのが,<リアル→言語>の言語写像論/表象主義,そしてこれに基づく合理主義・論理実証主義の哲学である。

「分析と再構築」の立場では,学はこれを方法とすることで明証性・客観性を得ることになり,研究は「明証性・客観性の実現」として取り組まれるものになる。
そしてこの理由で,「リサーチ」を研究のフォーム/フォーマットにする。

「リサーチ」フォーマットの中心は,つぎのルールである:
    自分の研究を,一つの研究ストリームの中に位置づけること。
すなわち,
1. 先行研究として定めているものを,挙げる。
2. それに対する自分の考え・立場を示す。
3. 引用・参考文献
そしてこの上で,論述をつぎのフォーマットに合わせる:
1. 問題を述べる。
2. ファインディング/解決 (finding/solution) を示す。
3. 検証する。 ──自分の研究が,研究ストリームの前進であることの証明。
4. 今後の課題を述べる。


1.4. 言語写像論/表象主義

「学」の「欧米化」とは,欧米方言の採用のことであり,この方言の中身は言語写像論/表象主義である。
西洋哲学は非常に多様に見えても,イデア論に始まって言語写像論タイプが主流を保ってきた。

西洋哲学の中でこの主流を批判するものに,Wittgenstein の哲学 ([Wittgenstein 1958]) や Rorty のプラグマティズム ([Rorty 1982]) がある。わたしはこの考え方に与する。
Wittgenstein の説くところは:
    言語はそんなふうに使うものではない。
     そんなふうに使うのは倒錯である。
ここで,「そんなふう」とは,表象主義のこと。

ちなみに,表象主義が教育を科学すれば,人間機械論になる。
実際,「数学教育学」が範にしてきた認知科学は,人間機械論である。
──人間知能の「分析と再構成」プロジェクトの終点は,人間知能が言語マシンの写し ( 人間知能=人工知能) になること。


2. ルールの遵守と逸脱

2.1. ルールは<逸脱>をつくる

学の欧米化を目指すことにした学会は,学会内研究のフォームを「リサーチ」に定めることとなる。
リサーチ形式は論理実証主義に立ち,そして論理実証主義は,言語写像論/表象主義に基づいている。

表象主義は,複雑系の学とはあわない。
特に,「数学教育=複雑系」の方法論にはならない。
実際,「数学教育=複雑系」の論は,実感論・経験論の形になる他ない。

しかし,実感論・経験論は,主観論・不可知論である。
このようなものは,「数学教育学はリサーチ形式で行う」のルールに違反する。 「数学教育学からの逸脱」と位置づけられるものになる。


2.2.「数学教育学」の言語タイプ

「数学教育学」は,先ずは学会の言語現象である。
この言語現象に対しては,ロジックとして,つぎの2つの言語層/レベルが区別される:
1. 「数学教育」の論──この意味での「数学教育学」
2. 「数学教育学」の論
(ちなみに,本論考は「数学教育学」論である。)

ここで,「数学教育」論のカテゴリーに,研究フォーマット遵守と逸脱の区分を設けることにする。 このとき,研究フォーマット遵守が,学会が認めるところの「数学教育学」である。

こうして,つぎの図に示される言語タイプの別と「数学教育学」の語の3つの用法が,導かれる:




2.3.「リサーチ」形式遵守のルール化の得失

リサーチ形式のルール化で,実感論・経験論は自動的に「数学教育学からの逸脱」になる。
「数学教育学からの逸脱」は学会に棲む形ではないので,実感論・経験論は自ずと学会からいなくなる。

リサーチは,実感論・経験論の上位互換にはならない。
よって,学会は,実感論・経験論が守備領域としてきたものを失う。

ここに,リサーチ形式ルール化の得失が問題になる (「得失のトレードオフ」)。 ──「どれほどのものを得て,そしてそのかわりに,どれほどのものを失うのか?」

得るものは,主に「秩序」である。
「数学教育の発展」は,ここから得られるところのものではない。 実際,「分析と再構成」から出てくるファインディングは,「既に知っていることの押さえ」の程度にとどまる。

失うものは実感論・経験論だが,「数学学習の意義」「数学教育 (数学学習の意義を実現するものとして) の方法」の論考などは,実感論・経験論を形とするしかない (§3)。 これがごっそり無くなる。

また,「数学教育学」論も,本来思念的なものなので,「リサーチ」ルールと調子を合わせるのは難しく,やはり学会を去る。

リサーチ形式の射程は,ひどく小さい。
この小さい射程が,学会の研究射程ということになる。


3. 実感論・経験論の理由

3.1.「リサーチ」形式の限界の構造

研究スタイルのルールをつくるにあたっては,ある研究スタイルが想定されている。
主題によっては,そして主題に対するスタンスの取り方によっては,このルールが無意味になる。 そしてこのとき,その研究は自ずとルールを逸脱するものになる。
これが,「リサーチ」を研究フォームと定めるルールと「数学教育=複雑系」の論考の関係構造である。

リサーチで数学教育の知見を求める形式は:
1. 「実験」として数回の授業を行い,
2. ある行動様式が「とれる・とれない」のテストを行い,
3. 実験群と制御群の間に有意差が計測されたことを報告する。
しかし,これから導き出される「知見」は,
    「数学教育の知見と言い得るものには,未だ至らない」 「数学教育の知見にやがてつながるようには見えない」 「数学教育の知見にやがてつながるとしても,果てしなく遠い先」
というものになる

こうなってしまうのは,つぎの構造的な理由による:
1. 複雑系の「変容」は,「変容と行動様式の対応づけができる」というようなものではない。
2. 複雑系の「変容」は,リサーチが射程におく要素的な「変容」の和ではない。
これを「構造的」というのは,リサーチが方法としている「分析と再構成」がそのままリサーチの限界を定めるからである。


3.2.「数学教育=複雑系」の論考の言語

リサーチの方法は「分析と再構築」である。 そして,複雑系を相手にしたときの「分析と再構築」は,「塵を積んで山をつくる」プロジェクトになる。 それは有効な歩を進めることができないし,方向制御の方策も立たない。
──実際,複雑系が「複雑系」であるのは,「分析と再構築」を超えるからである。

「数学教育=複雑系」の論考は,実感論・経験論になる。
そしてこれは,ルールの逸脱になる。

リサーチと実感論・経験論を対照するとき,そこでは何が見られているのか?
言語の用い方の違いが見られている。

リサーチは,言語を「対象の分析と再構成」に使う。
しかし,言語の道具性は,「対象の分析と再構成」にではなく,「意思を伝える/わからせる」にある。
そして,実感論・経験論は,言語のこの本来の使い方をしていることになる。──自分が経験的に知っていることを相手に伝える/わからせるために言語を使う。


3.3. 「数学学習の意義」の論考の場合

数学学習の個人的意義は,「成長」のことばで述べることになる。
この「成長」は,「数学学習が行われたときと行われなかったときの成長は,どう違ってくる?」という形で論ずるものになる。

 注意 : 「数学の試験で零点」は,「数学を学習しなかったらどうなる」に対する答えではない。 「数学の試験で零点」が示すのは,「数学学習が実現しなかった」であって,「数学を学習しなかったらどうなる」ではない。

この論考が意味あるものになるのは,ひとがふつう考えるときの「成長」(特に,時間スパンの長い「成長」) を考えている場合である。
──それはつぎのような形で感得している「成長」である:
別に数学を使っているわけではないが,この場面でそんなふうにアクションするのは,定めしこれまでの数学学習が効いているのだろう。
この「成長」は,「分析と再構成」の対象ではない。
実際,リサーチが「成長」の意味にするものとは,時間スパンのごく短いものであり,ひとがふつう考える「成長」とは違う。

「数学学習の意義」の論が対象にする「成長」(=ひとがふつう考える「成長」) の論述は困難である──ほとんど不可能である。
しかし,「述べられない」は,「わからない」ではない。 実感・経験は,この「成長」を感得できる。
実際,数学学習の程度の違いが成長の違いになることは,経験的にわかる。──経験蓄積が,確信を強めていく。
Cf. 山や川は「分析と再構成」でつくれなくとも,目はそれを感得する。

この感得は,不可知論と合わさっている:
「数学学習の意義」は,「あれやこれや」調の箇条書きスタイルで述べられるものではない。
「数学を学習しなかったらどうなる」という形でも述べられない。
「成長」に関わるとしか答えられない。
この不可知論は,つぎと同型である:
「ほうれん草を食べる意義」は,「あれやこれや」調の箇条書きスタイルで述べられるものではない。
「ほうれん草を食べなかったらどうなる」という形でも述べられない。
「成長」に関わるとしか答えられない。

「数学学習の意義」の論考は,実感論・経験論になる。 リサーチ形式にのらない。
──リサーチから結論として出てくる言説は,実感・経験でわかっていることの確認の程度にとどまる。


3.4.「数学の指導方法」の論考の場合

ひとが自力で,ある系を勉強しつつそこに生きることをするとき,系の意味・ロジックは,いちばん最後に理解されるものになる。
最初は,系の意味がわからず,「系の意味」の概念をもたず,ただバタバタする。
無駄なバタバタが少なくなるというのがこのときの成長である。
そしてこの成長は,たいてい,系の意味・ロジックの意識対象化 (概念化)・理解に至らないで終わる。

実際,意味・ロジックの対象化を進め,理論をつくってきたものは,<歴史>である。
ゆえに,教育が必要になる。
数学教育は,「数学」のカテゴリーで括っているところの各種<意味・ロジック>を教える。

そこで問われる。「数学の指導」は確かにこのようなものになっているか?
「数学の指導」は,たいてい,数学の指導ではない。
──数学の指導を実現することは,簡単ではない。
では,「数学の指導」と称しているものは何か?
数学的主題の構成素材のさらに断片の「指導」である。
実際,教員のアタマの中の「数学」は,たいてい<意味・ロジック>がスッポリ抜けている。

「数学の指導方法」の論考は,「数学の指導」としては<意味・ロジック>の指導になっているものを考える。
この「数学の指導」は,長い時間スパンでとらえねばならないものになる。
また,論考は,<意味・ロジック>の抜けた「数学の指導」を現状と定めるところから,はじめねばらない。

この論考は,根柢的であるほど,(リサーチ形式にのらないという意味で)「数学教育学」の中に位置づくのが難しくなる。


4. 実感論・経験論の棲息

4.1. 学会内──ルール遵守の形づくり (本末転倒)

実感論・経験論が学会に棲むためには,「数学教育学」のルール,特に,
    研究は,現前/既存の研究ストリーム (研究パラダイム) の中に位置づけること。
のルールの強迫を,うまくやり過ごさねばならない。

実感論・経験論は,もともとルールから外れるものであり,したがって,もともとストリームをもたない。
実感論・経験論は,つぎの本末転倒のプロセスを進むしかない:
1. 「数学教育学」としてあるために,「数学教育学」のルールに従う形にしなければならない。
3. 特に,研究ストリームの中に位置づけねばならない。
4. その研究ストリームを作為しなければならない。
5. 「先行研究」ということにする論文をさがし集める。
本当は,身近な出来事に啓発されてできあがった論であっても,「この研究ストリームの上を歩いて自分はここにいる」という形をつくるわけである。

自分の論が人類の歴史の上に成り立っているということと,「研究ストリーム」の形に表現できるぐあいにその歴史を特定できるということは,別である。 実感論・経験論は,「研究ストリーム」を特定できない,また特定する意味がない。──特定するのは,ウソになる。

本末転倒を無用にするためには,<逸脱>を研究の在り方としてきちんと定めることをしなければならない。
併せて,<逸脱>の実績を積み重ねることが必要になる。


4.2. 学会外

実感論・経験論は,学会内では<逸脱>である。 したがって,本来,学会に棲めるものではない。
それらは,どこにどのようにして存るのか?
(インターネットを含めても)問う術として有効なものはないというのが,いまの状況である。


5. 結 語

「数学教育学」の研究の要諦は,数学教育を複雑系と定めたところで,その総体的とらえを失しないようにすることである。
このタイプの言語は,「数学教育学」のルールによって存在を難しくされる。 「数学教育学」は,それをどのように担保するか?
この問題を考えるために,「数学教育学」を,「言語」のレベルにまで降って,改めてその実践スタイルを見直すことが必要である。
本論考は,この問題の提起であった。


6. 参考文献

Wittgenstein, L., 1958.
  Philosophical investigations [Philosophische Untersuchungen].
(Tr.by G.E.M.Anscombe.) Basil Blackwell.
Rorty,R.,1982.
  Consequences of pragmatism: essays, 1972-1980.
Univ.Minnesota Press.
[室井尚・他(訳), 哲学の脱構築 : プラグマティズムの帰結, お茶の水書房, 1985]
宮下英明, 1992.
  数学教育への素朴なアプローチのための緒言
筑波数学教育研究 no.11A (1992,3), pp.115-136. (http://m.iwa.hokkyodai.ac.jp/m/footprints/1992/paper/loose/)
宮下英明, 2008.
  「数学教育学」とは何か?
http://m.iwa.hokkyodai.ac.jp/me/theory/me_academic/