Up | 論理の不得手が,「抽象」の短絡に惹かれる |
「論理」を苦手とするとき,ひとは結果先取りに向かう。 すなわち「できる」に向かう。 問題解決では,問題の論理的還元ではなく,問題の見掛け (パターン) に対応する方を択ぶ。 教員もこれをやってしまう。 教員にとっても,「論理」は高いハードルである。
翻って,論理を運用できるカラダをつくってこれなかった者は,問題を正しく解ける者であることができない。 この場合の論理運用のカラダづくりを指導するのは,数学教育である。 どのようにして? 教育は,愚直な方法論しか持っていない。 論理運用のカラダづくりをさせようとするときは,論理運用の鍛錬を課す。 同様に,<問題解決=問題還元>のカラダづくりの方法は,<問題解決=問題還元>の鍛錬の他は考えようがない。 「公式」「形式不易の原理」を使えば,推論を跳び越えられる。 「数は量の抽象」は,これを逆用する格好になっている。 すなわち,「公式」「形式不易の原理」の適用を合理化する理論になっている。 「数は量の抽象」は,<量→数>の写像論である。 量の問題に対しては,これに応ずる数式があることになる。 両者の関係は「写像」であるから,「問題の論理的還元」という主題は発生しない。 特に,この理論は推論を封じるものになる。 写像論と「問題の論理的還元」の二つを示されると,ひとは写像論の方を択んでしまう。 一見,簡単であるからだ。 実際,速さの問題は,速さの公式を使わせれば小学生も答えを出せるようになる。 一方,「問題の論理的還元」の方は,大学生でも難しい。 量の問題を数の問題にかえて解く場合,論理を厳格に適用して問題の還元のステップを一つ一つ踏むのと,ワン・ステップでやってしまうのとでは,後者の方が自ずと択ばれてくる。 特に,「数は量の比」と「数は量の抽象」のうち学校数学が「数は量の抽象」の方を択ったのは,いわば必然であった。 |