Up はじめに 作成: 2014-02-15
更新: 2014-02-16


    「学校数学」を論じることは「向上」を論じることである。
    これは「生活」を論じることが「向上」を論じることであるのと,同類である。
    ひとは,物事を「向上」で考える習慣をもつ。

    しかし,物事には本来「向上」の含蓄はない。
    実際、「生活」には浮沈がある。向上を重ねる (「右肩上がり」) みたいにはならない。
    「学校数学」は,「向上」の試みがずっと続けられてきた割には,向上していない。
    「向上」のスローガンがいろいろ唱えられ続けているが,全体として代わり映えしない。

    ここに,つぎの考えがもたれてくる:
      「生活」は,「する」(実践) を考える一方で,
        「なる」(法則) を考えるべき主題みたいだ
    そして「なる」の探求に向かうとき,「経済学」が生まれる。
    「景気サイクル」とか「恐慌」とかの法則性が見出されてくる。

    同様に
      「学校数学」は,「する」(実践) を考える一方で,
        「なる」(法則) を考えるべき主題みたいだ
    として「なる」の探求に向かえば,一種の「経済学」が生まれる。

    経済学は,<主体>を「人」から「生き物」に一般化すれば生態学になり,さらに<主体>を「生き物」から「物」に一般化すれば物理学になる。
    生態学/物理学の視点で「生活の向上」を見れば、それが実は「資源の蕩尽」に他ならず、プラスマイナスでみればマイナスになっている、といったことがわかってくる。
    実際,一般に「向上」は、あるところがとんがるかわりにどこかがへこむことである。

    本テクストは,「学校数学」を,「なる」の視点で捉えてみようとする。
    即ち,ここで謂う「生態学/物理学」の視点から,「学校数学」を現前のようになるものとし,なぜこうなるかを論じてみようとする。