Up | 数学の勉強は何のため? | 作成: 2012-09-19 更新: 2012-09-19 |
「数学の勉強は何のため?」と言うときの「数学」は,「数学の授業」の「数学」である。 この「数学の授業」については,つぎのように考えることを立場とした:
また,その「数学の授業」は,勉強したことが使われるとはならないものである。 こうして,学校数学は, 《「何でもあり」で立ち,勉強したことは使われず,そしてこの形で自身の役割を果たしている》 と見るところとなる。 このとき「数学の勉強」の意味は,<「何でもあり」「勉強したことは使われない」の中に不変であるもの>として求めるものになる。 そして,<「何でもあり」「勉強したことは使われない」の中に不変であるもの>は,つぎのように思念される「勉強」である:
この「勉強」の意味は,「個の変容/成長の契機」である。 「数学の勉強は何のため?」の問いは,「数学の勉強は,自分ががどのように変容/成長することになるものか?」になる。 そこで,つぎがこの問いに対する答えの形になる:
「個の変容/成長」の論述は,「傾向性/カラダの形成」の論述がこれの形になる。 「傾向性/カラダの形成」の論述は,方法および内容において,「一般陶冶」論のものと同じになる。 ──つぎが,「一般陶冶」の趣旨である:
これは,別に不思議なことを言っているのではない。 「食べる」を「陶冶」の比喩にしたときには,あたりまえのことになる:
「傾向性/カラダの形成」の論述は,ありとあらゆるものが「傾向性/カラダの形成」の内容になってくる。 例えば,「世界認識」というときの「世界」。「数学の勉強」も「世界」の概念形成の契機の一つに考えられてくる。そこで,「数学の勉強」による「傾向性/カラダの形成」の内容に「世界」の概念形成も加えられる,という具合である。 傾向性/カラダの表現は,ことばを用いて行うことになる。 しかし,この表現では,傾向性/カラダとことばの両方の側で,不足と過剰が起こる。 そこで,この表現は,不足と過剰を埋める内的作業を表現者と表現の受け手双方に求めるものになる。 例えば,「数学の勉強」の意味として「世界」の概念形成を挙げるとき,「世界」ということばのこのときの読み方ができる知性および感性が当て込まれているわけである。 傾向性/カラダの表現は,ことばの論理的使用ではなく,「理性的な感性的」使用──いってみれば詩的使用──である。 傾向性/カラダの表現は,これがことばの「理性的感性的」使用になることを踏まえた上で,既成のことばの中からのことばのピックアップ──すなわち,傾向性/カラダの様を表すことばを辞書から拾っていく──を作業の単純形にしていく。 これは表象主義の体(てい)であるが,表象主義に即くということではない。 ことばを操る営みは表象主義を形とするしかないわけであるから,確信犯的にこの形を行う,ということである。 傾向性/カラダを表すことばは,傾向性/カラダ獲得の言い方「○○を知る/感得する」「○○がわかる」「○○ができる」の「○○」で代用するのが簡単である。 しかし「○○」の取り出しは,<カテゴリー> × <総合・分析>のマトリクスが拡大する格好で,際限のない/ 収拾のつかないものになる:
こういうわけで,「数学の勉強」の意味の論考は,「傾向性/カラダの形成」の言語表現を最終的課題にしていくものになる。 |