Up | <独善>の発生構造 | 作成: 2007-10-03 更新: 2007-10-05 |
「正しい -対- 正しくない」の世界観は,つぎのようになる:
正しいが,権力に虐げられる自分(たち) この世界観は,「人が人を支配する」の世界観である。 この世界観は幼稚なものである (<支配>はこのようなスキームでとらえられるものではない)。 すなわちこの世界観には,思考停止がある。 本来,教育方法に「正しい・正しくない」は立たない。 しかし,教育に「正しい・正しくない」を持ち込みたくなる心理が現にある。 この心理は何か? 世界を「正しい・正しくない」に分け,自分(たち)を正しい者として立てることは,つぎの思いから出てくる:
体制/権力/支配的集団の側に見せつけねばならない」
「正しい・正しくない」は,被虐的な独善である。 問題は,この独善が体質になってしまうことである。 「正しい -対- 正しくない」の対立図式を立てる体質は,何に由来するか? それは,「自分は理不尽に否定されている」という意識・感情の鬱積である。 これがコンプレックスになって,何かにつけて「正しい -対- 正しくない」の対立図式を立て,内面性 (「ボロは着てても心は錦」) を強調する。 ──内面性の強調は,現実との対立を自らきびしくするほど昂じる。 自分が他から否定されることは,普通のことである。 しかし,つぎの違いが出てくる:
否定によってひどく傷つくか,否定を穏やかに受けとめられるか。 そして,「ひどく傷つく」の場合,「正しい -対- 正しくない」の対立図式を立てる体質が形成される。 ──これに対し「穏やかに受けとめられる」の場合は,寛容 (「正しい」を相対的にとらえる) ないし科学指向 (「正しい」を位置づけたいと思う) の体質が形成される。 教育に「正しい・正しくない」を持ち込む心理は,ゆがんでいる。 ゆがんだ心理の理由はその時の情況に求められるが,「正しい・正しくない」の世界観は正当化されるものではない。
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