Up 論争の理解に必要な知識・視点 作成: 2011-09-04
更新: 2011-09-18


    小学校教員は,算数の授業でつぎの問題を持つ:
     この文章題は,数2と3の積の立式をするものであるが,さて,立式は2×3,3×2のどっちだろうか?
    あるいは,どっちでもよいのか? ──どっちでもよいということであれば,どうしてどっちでもよいのか?
    あるいは,自分の子どもが算数のテストで<積の立式における2数の順序>のことでバツをもらってきたときの親も,同じ問題をもつ。

    この小学校教員・親は,いまの時代は,ネットの中に答えを求めようとする。 即ち,「かけ算の順序」で検索をかけるわけである。
    そして,雑多な文言の山を目の前にする。
    また,少し仔細に見ていく中で,この「かけ算の順序」はずっと論争されてきたテーマであるらしいということがわかってくる。

    そこで,どの意見につけばよいのか?という問題になる。
    そして,いちばん上位にいそうな者をさがす。
    上位にいる者は,大衆を「愚か」と言ってのける者であるはずだ。
    そこで,「あたまが悪い」の言い方で一刀両断する者に出会うと,様子見でこれに付き合ってみようかとなる。

    しかし,この方略はダメである。

    実際,「かけ算の順序」の問題は,学識がある程却って「あたまが悪い」という言い方ができなくなる。 学識は,問題の構造の理解と,《「あたまが悪い」という言い方が起こる精神構造・メカニズム》の理解に向かうのみである。 そして二つ合わせて,問題は「あたまが悪い」の話ではないということを理解するのである。

    そこで,「かけ算の順序」の新参者のために,「かけ算の順序」の言説の状況・地理の概説を,この序文で行うことにする。


    先ず,「かけ算の順序」論争は,つぎの二つの立場の間の論争である:
    1. 数の積の意味は「1あたりいくつ × いくつ」であり,積の二数はこの順序で並べねばならない。
    2. 積の二数の順序は,こだわるべきものではない。

    数の積の意味を「1あたりいくつ × いくつ」とするのは,遠山主義である。
    「積の二数の順序はこだわるべきものではない」の立場は,さらに二つに分かれる。遠山主義者の内からのものと,遠山主義の外からのものである。


    数学から見れば,遠山主義も「積の立式は自明であり考えることではない」も大差ない。 すなわち,「かけ算の順序」の数学を外しており,そして数学を見ないようにしている点で同じである。

    このことを捉えられるためには,「かけ算の順序」の数学を知らねばならない。
    遠山主義というイデオロギーを知らねばならない。
    さらに,「かけ算の順序」論争における人間行動学・人間心理についても考えを及ぼす必要がある。

    「数学を知らねばならない」について
    だれかにつくというのではなく,自分の足で立つことを望むひとは,「かけ算の順序」の数学の勉強が必須になる。 実際,「かけ算の順序」は数学であるから,これを知らないで自分のスタンスを定めるなどは話にならない。
    「人間行動学・人間心理についても考えを及ぼす必要がある」について
    「かけ算の順序」の数学を知らないで自己主張すれば,モンスターになる。
    自分を一丁前に思っている者は,一刀両断をやってしまい,あとからみっともないふうになる。
    ひとからみっともなく見られるのを免れたい心理は,自閉や<引っ込みがつかない>の行動に進ませる。
    以下,「遠山主義というイデオロギーを知らねばならない」について

    「かけ算の順序」の言説の多くが論争の言説であり,そしてこの論争の大もとにイデオロギーがあるということを,知っておく必要がある。 そしてこのことを知るとは,このイデオロギーに対する知識をもつということである。

    戦後,それまでの抑圧体制への反動から,社会主義をイデオロギーとする体制改革の運動が起こる。 社会主義国家の崩壊を経たいまの時代の世代には考えにくいであろうが,その時代は「革新」イコール社会主義だったのである。 この時代背景をよく理解していなければ,「かけ算の順序」のイデオロギーの問題をひどく捉え損ねることになる。

    この体制改革運動の中に,教育改革の運動がある。
    運動の方針は,教育の社会主義的改造である。
    そして運動の中心になったのが,ときの日教組である。

    教育改革運動は,教科網羅的に進められる。
    この運動は,社会科において最もわかりやすく示される。 唯物史観による歴史の再解釈とか,社会問題に対する「階級支配・階級闘争」の解釈等である。
    一方,算数科は,わかりにくい部類に入る。 社会主義のイデオロギーの出自のうちにマルクスの哲学があるが,この哲学に<唯物論>がある。 算数科では,<唯物論的組み替え>が運動の形になった。
    特に,<数は量の抽象>の立場からの数の意味・数の計算の理由づけが進められる。 <数は集合の基数>みたいな論も起こり,これもいまも生きている。
    ちなみに,数学では<数は量の比>になる。

    「かけ算の順序」論争は,<数は量の抽象>を土俵にしている。
    論争は延々と続いているが,延々と続けていられるのは,土俵にしている<数は量の抽象>が,もともと数学として間違っているからである。
    実際,間違った土俵では,何でもありになる。 モンスターもここでは同格になる。

    翻って,論争する者は,この土俵を守る者である。 土俵を失ったら,論争できないからである。
    土俵を失わせるものは,数学である。 「かけ算の順序」の論争を続けられるためには,数学と交わらないようにしなければならない。
    こうして,「かけ算の順序」の論争をする者は,数学に対して自閉する者である。

    ところで,学校数学には,数学として間違いの<数は量の抽象>がおさまっている。 すなわち,算数科では,教育改革運動が勝利したのである。
    しかしこの勝利は,「歴史の間違い」みたいなもので,勝利した側にとっても本来喜ぶことのできないものである。 数学でないものを数学として教えることになるので,学校数学はひどい奇形を余儀なくされる。 しかも,現実問題として,いまから数学の<数は量の比>に返ることはできそうもない。

    <数は量の抽象>を立場にするとき,「かけ算の順序」の問題は自ずと起こることになる。 すなわち,<数は量の抽象>で「かけ算の順序」を問題にすれば,それは自己撞着になる。そしてこれは,数学でないものを数学としてやったための必然的奇形の一つに他ならない。

    <数は量の抽象>は,遠山啓を教祖とする。 そこで,「かけ算の順序」で論争する者は,遠山啓が遺した文献に解決を求めようとする。 しかし,そこに解決はない。──教祖は,自分の論の自己撞着を自ら示す立場にない。

    遠山啓のうちにも,「数学でないものを数学としてやったための奇形」という問題が起こっていなければならない。 ここが,「かけ算の順序」のイデオロギーを考えるときのいちばんの要点になる。

    <数は量の抽象>を立場とする者は,遠山啓を無謬の者にしている。 最初のことばで真理を発したというわけである。
    実際には,遠山啓は「数学でないものを数学としてやったための奇形」にすぐに気づく者になる。 数学者の資質とはそういうものである。
    しかし,<数は量の抽象>を立てる論争の中で,<数は量の比>の側をあたまが悪い者にしてしまった。 しかも,もう教祖にされてしまっている。
    遠山啓については,「<数は量の抽象>を唱えた遠山啓」に続く「引っ込みのつかなくなった遠山啓」のステージを考えねばならないのである。