Up 没論理の核心 :「実体から関係へ  


    「数は量の抽象」は,没論理である。 そしてこの没論理の核心が,遠山のつぎのことばに出ている:

      ここで分数についての二つの対立的な見方がでてくる。一つは和田理論のように分数を関係数もしくは割合分数とみる方法である。これは分数を二つの量の関係概念としてとらえようとするものである。
      しかし,これだけが分数の考え方ではない。それは一つの連続量の対象的表現とみる考え方である。つまりこの分数を実体概念としてとらえようとするのである。もちろん割合という概念を排除するのではない。実体概念を固めてから関係概念に移ろうとするのである。
      ごく常識的にいっても実体概念の方が先で関係概念は後になる。‥‥<関係から実体へ>ではなく<実体から関係へ>というのが認識の順序に合っており,そのほうがずっと理解しやすいはずである。
      (教師のための数学入門 VI,数学教室, No.52 (1959, 3), pp.69,70)

    言っていることは,「数の実体概念を固めてから,関係概念の数に移ろう」である。 実体概念の数は「量としての数」であり,関係概念としての数は「量の比としての数」である。
    数にこの二役を与えることについては,問題はない。 問題は「実体概念を固めてから関係概念に移ろう」の順序である。
    この順序はあり得ない──構造的にあり得ない。

    「構造的にあり得ない」を見るためには,数学の知識が要る。 ──数学で考えないと,「実体概念を固めてから関係概念に移ろうとするのである」のことばの表面的な意味にだまされる。 ( 準備 :「数・量」の数学)

    数の系 (N, +, ×) は,量の比の表現と計算に使われるものとして存る。 (N, +, ×) の要素が「量の比としての数」である。
    一方,「量としての数」は,数の系 (N, +, ×) から導かれる系 ( (N, +), ×, (N, +, ×) ) の (N, +) の要素を指す。
    「量の比としての数」から「量としての数」を導くことができるのであって,その逆ではない。
    「実体概念・関係概念」の言い方を使って言い換えると,関係概念としての数から実体概念としての数が導かれるのであって,その逆ではない。

    遠山は,「ごく常識的にいっても」「認識の順序に合っており」「ずっと理解しやすいはず」と言う。 しかし,そもそも論理的/数学的構成というものは,「ごく常識的にいっても」「認識の順序に合っており」「ずっと理解しやすいはず」の逆を行くものになる。──だからこそ,論理学・数学というものが意味をもつ。