Up 没論理が数学として教えられる  


    「数は量の比」は,線型空間や加群(module)の話に慣れている者なら「数と量の関係は,スカラとベクトルの関係のようなもの」の言い方で了解できる内容である。
    「量」の語を使ってはいても,それは数学的な形式の話になる。
    「数は量の比」とはいっても,数より先に量があるのではない。 形式としての量は,数を素材にして定義される。 数の方が量より先にくるのである (「量としての数」: 量の普遍対象)。

    一方,「数は量の抽象」は,実体概念として量を立てるところから論を起こす。
    「数は量の抽象」は,<量→数>の写像論である。 数は量の抽象であるとする。
    そして,つぎのような論を展開していく:

      数は抽象,量は具体
      量には内包量と外延量がある
      数の積は量の積の抽象
      割り算には等分除と包含除がある
      形式不易の原理
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    <量→数>の写像論は,端的に間違いである。
    これを貫徹しようとすれば,その都度現れる論理的矛盾に対してこれを糊塗する理屈をつくりださねばならない。
    こうして,「数は量の抽象」は保持しようとすればするほど,モンスター理論化する。

    「数は量の抽象」は,没論理である。
    学校数学が「数は量の抽象」を択ったことの単純なリターンは,「没論理を数学として指導することになる」である。

    「数は量の抽象」は,数の概念,数の算法,量計算の指導を荒唐無稽にし,けっきょくわけのわからないものにしてしまう:


    そして,これは同時に,学習者を<おかしいということがわからない者>にするということである。

      例 : 「数は量の抽象」では,タイルを数 (数の具象) として使う。
    タイルで乗法はできない。 しかし,タイルを使う当人は,タイルで数の乗法をやっていると思っている。