Up 革命の頓挫 作成: 2011-09-12
更新: 2011-09-12


    自然数を<物の個数>の抽象として立論する構想は,「自然数の和」を「和集合の基数」で説明するところまではよいが,「自然数の積」のところで早くも怪しくなる。

    思いつきとして自然に出てくるのが「自然数の積」を「積集合の基数」で説明するというものであるが,これはだめである。 実際,「リンゴが1皿2個だと,3皿では何個?」の問題に対する「2×3」の立式を,説明できないのである。

    そこでどうしたか?
    「自然数の積」は「<1あたりいくつ>×<いくつ>」だということにした。 2数の意味が違ってくるが,「自然数は<物の個数>の抽象」をなんとか保つふうにはなっている。
    一方,最初の構想で鍵になっていた「集合」は,以降舞台から引っ込むことになる。

    「自然数の商」はどうなる?
    「<1あたりいくつ>×<いくつ>=<いくつ>」にしたので,つぎの二つが出てくる:
      「<いくつ>÷<いくつ>=<1あたりいくつ>」
      「<いくつ>÷<1あたりいくつ>=<いくつ>」
    そしてそれぞれを「等分除」「包含除」と呼んで区別しているわけである。

    これが分数に進むと,無理がはっきりしてくる。
    先ず,積に対する「<1あたりいくつ>×<いくつ>」はもう使えない。
    そこで,「<1あたり量>×<量>」を使う。
    このときなぜこうなるかを説明しなければならないが,ここで「形式不易の原理」が用いられる。 そして,唯物論なのでこれができることになる。 すなわち,つぎの言い方が説明になるのである:  

      物の世界はこうなっている。
       数学は,物の世界の抽象である。
       よって,これが分数の積になる。

    さらに「<1あたり量>×<量>=<量>」では,これにのせることのできる量も限定されてくる。 限定されるということは,「<1あたり量>×<量>」が恣意的だということである。

     註 :物の世界はこうなっている」は,「比の三用法」の導入でも使われていることになる。

    正負の数になると,「<1あたり量>×<量>=<量>」は完全に破綻する。
    学校数学でも,「<1あたり量>×<量>=<量>」にむりやり理屈をつけたら,さっさと数の計算へ移行する。 分数の割り算のときに,むりやり理屈をつけたらさっさと「割る方の分数をひっくり返してかける」に移行したのと同様である。

    こうして,「数」の論を唯物論でつくるという構想,すなわち<数は量の抽象>は,どんづまりになる。
    しかし,「どんづまり」は,ほおかむりされる。 あるいは,「どんづまり」は,認識されない。 <数は量の抽象>は,頓挫した形がそのまま「数」の理論として受け継がれていく。
    実際,学校数学は,数学である<数は量の比>を<数は量の抽象>が駆逐したふうになっている。 ともかく,学校数学においては,「革命」は成功したのである。 学校数学は,「教授/学習の無理」という形でこのつけを負っていく。