Up 唯物論──存在自身が明証 作成: 2011-12-27
更新: 2012-03-05


    <数は量の抽象>の立場では,数の ×・÷ は量の ×・÷ の抽象である。
    そこでこの立場は,「量の積」を作為しなければならない。 ──ここで「作為」という言い方をするのは,数学に「量の積」はないからである。
    そして,作為した「量の積」が,「1あたり量 × いくつ分」である。

    「1あたり量 × いくつ分」が,どうして「量の積」というものになるのか?
    <数は量の抽象>は,つぎの説明をつくる:
      「1あたり量 」は「内包量」というタイプの量である。
      「いくつ分 」は「外延量」というタイプの量である。

    この説明は,存在論である。
    数学とは別のものである。
    <数は量の抽象>の「1あたり量 × いくつ分」は,立場 (イデオロギー) であり,このようなものとして理解してやるところのものである。


    数の ×・÷ が<量の ×・÷ の抽象>であるとき,数の ×・÷ の指導は<量の ×・÷ の抽象>の指導である。
    数の ×・÷ は,<リアルな事象としての量の ×・÷ の写し>として導入されねばならない。
    かけ算・わり算の指導は文章題で始められるものになっているが,ちゃんと理由がつくわけである。

    しかし,この指導は,無理な立場に立っている。
    無理な立場は,無理な論法を強いる。
    「形式不易の原理」「比の3用法」を用いるのは,<説明抜き>をやることである。
    数直線」の上で数および量を配置するプロセスは,無用のものである。
    数直線」を分数・小数の ×・÷ の導出に用いるのは,循環論法である。
    そしてこれらが,分数・小数のかけ算・わり算の非明証的の内容をなす。

    一方,<数は量の抽象>の立場では,論理の飛躍,論法・手順の無用・循環論法は,問題にならない。
    なぜか?
    <数は量の抽象>は,数学を<存在法則> (唯物論) に基づかせようという考え方であり,そして<存在法則>の立場に立つ者にとって,<存在法則>は明証そのものであって,これに対し明証を立てるというものではないからである。
    <数は量の抽象>は,「2は,リンゴ2個,犬2匹,棒2本,‥‥ の抽象である」と言う。 2の前に既に2があることに循環論法を見そうなものであるが,<数は量の抽象>ではこの循環論法も問題にならない。 「1億は何が1億の抽象か?」の論難も,問題にならない。

    学校数学の<数は量の抽象>には,唯物論イデオロギーが出自の歴史的経緯がある。
    学校数学の現行はこの歴史的視点を欠いては理解できない。