Up | 立式が,文章題の抽象 | 作成: 2011-12-27 更新: 2012-02-15 |
なぜか? 学校数学は<数は量の抽象>を立場にしており,そして<数は量の抽象>の立場では,立式は量の演算を抽象する行為ということになるからである。 このとき,数の「×」は量の「×」の抽象であり,数の「÷」は量の「÷」の抽象である。 しかし,量の「×・÷」とは何か? 数学には,量の「×・÷」はない。 <数は量の抽象>は,「1あたり量 × いくつ分」を量の「×」ということにする。 「1あたり量」「いくつ分」という異質なものをともに「量」と呼ぶことについては,「内包量・外延量」のことばを用いて,これでよいのだという説明をつくる。 実際,この説明は,今日教育現場で広く受け入れられている。 <数は量の抽象>では,数式「2/3 × 3/4」は,量に関するつぎの事態の抽象である:
数学だと,《分数を係数にしている量から,分数の「×・÷」を導く》は循環論法になる。 しかし,<数は量の抽象>の立場では,この循環論法は問題にならない。 <数は量の抽象>は,「2は,リンゴ2個,犬2匹,棒2本,‥‥ の抽象である」と言う。 2の前に既に2があることに循環論法を見そうなものであるが,<数は量の抽象>ではこの循環論法も問題にならない。 「1億は何が1億の抽象か?」の論難も,問題にならない。 なぜか? <数は量の抽象>は,数学を<存在法則> (唯物論) に基づかせようという考え方であり,そして<存在法則>の立場に立つ者にとって,<存在法則>は論理そのものであって,これに対し論理を立てるというものではないからである。 |