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数学のヒューマン・インタフェース
メディアの貧困は,コミュニケーションの阻害という観点から,ヒューマン・インタフェースの欠如というようにも捉えられます。特に,メディアの進化はヒューマン・インタフェースの進化という形で進みます。
ヒューマンインタフェースの欠如の下では,数学教育は
「数学の晦渋な記号表現を解するように学習者を訓練する」
という形態になります。しかしあり得べきは,
「記号に人を近づけるのではなく人に記号を近づける」
という形です。人に記号が歩み寄るという形で数学の表現メディアを開発することが本筋です。
課題は,数学のいまの表現メディアを旧態依然あるいは独善的と見なし「これに義理立てるのではなく,人間の方に便宜をはかる」ことです。そしてこれは,数学のヒューマン・インターフェイスの課題化です。
数学のいまの表現メディアは,時代の制約の中にあると同時に,専門集団の専有の中にあります。この制約と専有は,既に旧い時代の制約および独善になっています。わたしたちはいま,よりヒューマン・フレンドリーなメディアの可能性を考えねばならない時代,そして考え得る時代にいます。
実際,一般学習者と数学の間に,伝来の表現メディアが障壁として立ちはだかっています。学習者は,数学に接する前に,この障壁に突き当たります。そして多数がこの障壁に挫折することになります。この段階では,数学に挫折しているのではありません。したがって,一般学習者が救われる望みはまだあるわけです。
強調しますが,数学のいまの表現メディアは,数学を既に理解している人の使い勝手(記録や処理)から良しとされるものであって,これから数学を理解しようとする人の学習メディアとして良いのではありません。
数学の思考は本来VR(Virtual Reality)的──特に,視覚的──です。おそらく,思考一般について,VR的であることが自然な姿であると考えられるでしょう。文字系列的な思考形態が,むしろ自然から離れていると思われます。
実際,数学をする人はVR的に考え,必要なときにそれを文字化します。表現とは一般に〈疎外〉ですが,このときの文字メディアへの表現過程はまさしく疎外です。自分が読めないものを結果的に書いてしまうということが,冗談ではなく,ありそうなことなのです。文字表現は,つくった本人でさえ受容しにくいものなのです。(実際,わたしたちは自分の書いたものを読むときには,無意識に文字をイメージのようなもので補っています。自分の書いた文章の難解さ/奇妙さが自分ではわかりにくいのは,このためです。)
したがって,数学書が大部分の人にとって読みにくいのは当然なのです。VR的なものの文字化は〈疎外〉であり,よって,文字からVR的なものを再現することはとんでもない飛躍ということになります。実際,例えば,イメージを先行させずに幾何学の公理や定理,証明を読むことはできません。
ひとは文章の上で数学をすることはできません。文章は行動の契機であって,行動を定めるプログラムではないのです。人がする数学の実践をコンピュータのプログラムとして実現することはできませんが,それは数学の実践が文処理ではないからです。文法に従った文処理を行なっているつもりは,実際にそのようにしていることではありません。
繰り返しますが,文字メディアは決して数学と相性のよいものではありません。文字メディアが使い勝手がよいとしたら,それは専ら送り手にとってです。受け手にとっては,非常に負担の大きなメディアなのです。