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言うまでもないことですが,「理解」は,「理解か不理解か」という二値のものではありません。「理解」にも,レベルとか質(しつ)の違いがあります。質(しつ)の悪い「理解」は「不理解」と同じでしょう。あるいは,「不理解」よりも質(たち)が悪いかもしれません。
そこで,「数学理解」をゴールとする数学教育でのわたしたちの課題は,つぎのようになります:
「主題の良質な理解に学習者を至らせるための方法」
この場合,つぎの三つのアプローチが立ちます:
- 教授/学習メディアを固定して,教師の指導能力の伸長を考える
- 教師の指導能力を固定して,教授/学習メディアの革新を考える
- 教師の指導能力の伸長と,教授/学習メディアの革新の両方を考える
ここでは2番目のアプローチを,つぎの立場から選ぶことにします:
- 「数学理解」は教師においても危うい。実際,数学教育の場合,教師教育は教師を「数学理解」に導くところに最大の困難がある。「数学理解」は,生徒と教師の両方の問題である。
- ある数学的主題の学習が困難なのは,その主題を既成のメディアにのせることにもともと無理があるから。
この場合,あくまでも既成のメディアに即くことで主題を引っ込めることになるか,それとも新しいメディアに賭けるかの,二つに一つの選択になる。しかし,「数学理解」をゴールとする数学教育の立つ瀬は,第二の選択肢にしかない。
現在わたしたちは,教授/学習メディアの革新を課題化できる場所にいます。それは,特に情報通信テクノロジーの今日の進歩がもたらしたものです。
すなわちわたしたちは,つぎのように考えることができます:
- 学習の困難を直ちに主題の難しさのせいにすべきではない。
学習の困難は,旧来の教授/学習メディアの「貧しさ」にも原因がある。
これまでの教授/学習メディアは,学習者にとって非常に負担の大きいもの──最終的に,学習者を拒絶するもの──である。
- いまは,旧来の貧しい教授/学習メディアを甘受する必要はない。
ここで「教授/学習メディアの革新」の内容は,文字に深く依拠してきたこれまでの教授/学習メディアをいわゆる「マルチメディア」へと改めるということです。