Up 「モデル」を存在として立てるのは,形而上学に 作成: 2011-09-20
更新: 2011-09-20


    ことばは,「モデル」の<存在>を立てることができる。
    しかし,<存在>を立てられることと,それが存在することは,別のことである。
    Cf. 「白い黒」という<存在>を立てられることは,
    「白い黒」が存在するということではない。
    <存在>を立てたときには,存在の問いがこれに続く:
      その<存在>は,ほんとうなのか?
    そのような<存在>を,実際に示すことができるのか?


    この存在論は,形而上学になる。
    すなわち,数学とは画されるものとして「数学のモデル」という存在を示すことは,できない。 そういう存在は,無い
    これを見ようとするのは,<幻視>である。 <幻視>を用いるのは,形而上学である。

    数学は,<卑近>がこれの出自である。
    数学は,<卑近>に適用される。
    「モデル」の発想は,このプラグマティズムの中に「媒介項」の趣で「モデル」という存在を立てようとする。
    しかし,それは無理な考えである。
    端的にそのような存在は無いからである。