Up 数学教育の狭い道 作成: 2009-05-31
更新: 2011-10-20


    カントのよく引用されることばに,「内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である。」というのがある。 (『純粋理性批判』の「超越的原理論, 第二部 超越的論理学, 序論 超越的論理学の理念」) 数学の学習,数学科の主題研究への適用を考えて,これをさらにつぎのように言い替えてみる:
      意味行為なき推理は空虚であり,推理なき意味行為は盲目である。
    (ここで「意味行為」は,意味を考察したり,意味づけたり,意味を論じたりする行為をこう呼ぶことにする。)

    実際,教員養成コースの学生は,専門数学の授業では,意味がわからないまま板書をノートに書き写すことをやってしまう。 期末の筆記試験では,意味がわからないまま解答をつくる。(意味行為なき推理)
    教員養成コースの学生は (したがって将来の学校教員は),数学科の授業設計では,主観で主題の意味を定めることをやってしまう。そこには,数学がない。(推理なき意味行為)


    ある数の系を主題とする授業づくりが課題になっているとしよう。 主題研究では,「数学の場合,この主題はどれだけの階梯を経て現れるものか?」を併せて考えることになる。
    専門数学の科目で普通扱う内容の一つに,自然数→整数→有理数→‥‥と続く「数の構成」がある。 この「数の構成」を学んだことがあれば,本来なら,「どれだけの階梯か?」を考えることができる。 しかし,現実はそうはならない。

    すなわち,学生は「数の構成」が頭に残るような学習をできていない。
    学生が授業づくりの課題において数を主題にするとき,主題研究の中に「数の構成」は現れてこない。
    学生は,小学算数の内容なら小学生の知識で,中学数学の内容なら中学生の知識で,高校数学の内容なら高校生の知識で,授業づくりをしてしまう。

    このときの「意味行為なき推理・推理なき意味行為」の問題は,第一に,「大学の学校教員養成コースにおける専門数学の教育がうまくいっていない」という問題である。
    学生は「推理なき意味行為」を身につけて大学に入ってくる。大学でも「推理なき意味行為」が改められないままになる。 そして,この状態のまま教員になる。

    例えば,学校教員の中から「数の積の立式における2つの数の順番は?」の問題が起こり,議論に花が咲く,ということがある。
    数学の内容であるから,本来なら数学でもって自動的に決着する。しかし,議論に花が咲くみたいになる。
    どうしてこうなるのか?
    推理を使う術が持たれていないからである。
    より正確に言うと,「数の積の立式において2つの数の順番が定まるところの<数学>」という概念が持たれていないからである。
    数の積の立式における2つの数の順番は,数の積の<数学>によって定まるのだが,このことを知らない
    そこで,「推理なき意味行為」同士の間の議論になる。
    順番が違っても値は同じ,よって順番は関係ない。」の初心者レベルから始まって複雑に凝った論の独創まで,議論が果てしなく展開される──飽きられるという形で終わるまで。


    数学の重要な動機の一つに,「<とりとめのない議論>から自由になる」がある。
    これの方法として,ユークリッド幾何学において公理主義が示された。
    数学は公理主義でやっていけるわけではないが,スタンスとしてはこれを厳格にしている。 ある主題を論じるときは,この主題の構成に至る論理の溯行を,併せて意識していることになる。 実際,「証明」は,<論理の溯行を明らかにする>という形で推理を提示する。

    近年には,ブルバキが構成主義を実践してみせた。
    各種数学的主題の論理的構成・論理的溯行のオーダーを,形式言語,集合・構造・空間・写像 (関数),代数的構造,位相構造,‥‥ のように示した。

    学生は,「推理なき意味行為」を身につけて大学に入ってくる。 すなわち,<とりとめのない議論>から自由になるための数学の方法論を知らないで,大学に入ってくる。
    これは,学校数学がうまくいっていないという問題である。

    「<とりとめのない議論>から自由になる」ための数学の方法論──最も数学らしいところ (数学の真骨頂) ──を学校数学で扱う単元は,伝統的に図形領域の論証であった。 しかし,「問題解決」を学校数学の中心のテーマにしようとする傾向と相関して,この分野は学校数学の中で弱くなっている。
    図形以外の領域は,なおさらである。 例えば,「論理の溯行」が意識されるふうに「数」の指導体系が考えられることなどは,あり得ないものになる。


    「各種数学的主題の論理的構成・論理的溯行のオーダー」が示すことの一つに,つぎのものがある:
      解析のような実用色の強い (卑近度の高い) 主題であるほど,
      オーダーではかえって後の方になる。
    学校数学は「数」の指導から始まるが,この内容も,数学ではかなり大部の理論の先行を以て初めて扱えるものとなる。

    教員養成コースの学生は (したがって将来の学校教員は),「自分にとって簡単/わかりやすい」を「生徒にとって簡単/わかりやすい」にし,そしてこの「簡単/わかりやすい」は数学のオーダーでも前の方にくると思いやすい。
    しかし,「簡単/わかりやすい」は,数学の視点からは「複雑・混沌・混乱」の相になる。

    数学にとっての「簡単/わかりやすい」は,「論理的にクリア」である。しかし,この「クリア」は,一般者が「難しい」とするものになる。
    一般者の「簡単/わかりやすい」は,数学では,没論理である。 したがって,これを数学としてやっていこうとすれば,すぐに行き詰まる。


    では,この<捻れ>を,学校数学を動かすモーメントに転じることができるか?
    ここが,難しいところである。

    実際,学校教育は,<惰性>を圧倒的なモーメントにして,動いている。
    この運動を加減しようとすることは,10tトラックの走りを外から加減するみたいなことである。
    手で押しとどめようとする者は,はねとばされて死んでしまう。
    大きな壁でもって立ちふさがろうとすれば,トラックは大破してしまう。
    トラックを徐々に加減するためには,この難しくて長期にわたる作業に取り組める能力と執念とそして体制が要るが,公平に考えて,これは期待する方が無理というものになる。

    ちなみに,学校教育の<惰性>を理解することは,重要である。
    実際,教育行政の失敗は,決まって,つぎの形になっている:
      学校教育を簡単なことと思う人間が,思いつきで「改革」をやって,
      被害を出して,失敗する。
    学校教育を簡単なことと思う人間は素人か思い上がったエリートであるが,思い上がったエリートにしても,学校教育を簡単なことと思う点で,素人に他ならない。