Up 生徒の親は,教員を上に見ない 作成: 2010-03-17
更新: 2010-03-17


    いまは大学全入の時代である。 大学全入の時代には,「必要な勉強をしないで大学に入り,必要な勉強をしないで大学を卒業する」ということが起こる。
    教職に就こうとする学生も,このような者たちである。

    結果,教職は,能力の高さ・質によって就く職業ではなくなる。 成人として生計を立てるために「あれかこれか」と選ぶ職業のうちの一つであり,興味・関心・あこがれで選ぶ職業である。
    教員養成の大学の学生は,教員採用試験合格のためにこれの予備校に通う。 大学も,「就職対策指導」ということで,これの便宜をはらう。 こうして,教員採用試験に受かるノウハウをもつことが,教員になることとイコールになる。
    「ひとを教え導く仕事であり,したがってひとを教え導けるだけの能力の高さ・質が必要になる」というまともな考え方は,ここには見られない。

    そして,皮肉にも現場教員が,このまともな考え方が失われる傾向を促進するのに最も力を尽くした。 すなわち,組合運動をするとき,それは教員を一般会社員と同じに位置づけようとする運動となったのである。


    世間は,すでにこのことを察知している。 そしてこの世間の中には,生徒の親がいる。
    彼らは,自分の子どもの担任教員を上に見るところからは始めない。 担任教員を試すところから始める。

    あることがきっかけで教員を見くびるようになった親は,以降図に乗るようになる。 教員が未熟で,これに対抗するだけの力を持っていない場合,親はモンスターになる。 すなわち,教員の授業・指導・成績評価をまったく信用せず,つねに批判的立場をとるようになる。

    これは,生徒に感染する。 生徒も,教員の授業・指導・成績評価を信用しなくなる。

    昔の人間は,ひとがつねに未熟を抱えるものであること,そして<権威>の否定は子どもが真似をするということを知っていたので,教員に対する公然の批判は控えた。
    いまの時代は,このようではない。
    先ずマスコミが,公然の批判の役を自らに任じている。 やり玉にあげられる者はいないかと,目を光らせる。 そして,見つけるのは至極簡単である。

    こういうわけで,いまの時代,教員は<権威>をもてない。 一方,<権威>がなくて,「ひとを教える」「子どもを成長させる」の役をもつことはできない。
    だから,いまの時代は,教員は「子どもの友だち」である。
    実際,教員養成系大学のいまの学生は,「子どもの友だち」を教師像としてもつようになっている。