Up 修行損失 作成: 2014-12-07
更新: 2014-12-07


    「数学教育学をするカラダ」づくりは,修行である。
    即ち,このカラダづくりは,「修行」のレベルで考えることになるものである。

    修行は,方法論のうちに「一回死んでこい」がある。
    修行は,《「死の淵を覗く」をやったときに現れてくるカラダがある》を立て,そのカラダを得ようとするものである。
    翻って,「死の淵を覗く」が要素にあるかどうかで,「修行」が「カラダづくり」一般から区別される。

      修行はどれも,「カラダをいじめる」になっている。
      「カラダをいじめる」の意味は,「カラダに死の淵を覗かせる」である。
      死の淵を覗いたカラダは,変身する。
      修行は,「死の淵を覗く」のことばが大袈裟になるものから,文字通りであるものまで,いろいろであるが,「死の淵を覗く」が本質であることを以て「修行」なのである。


    「数学教育学」はカラダ依存であり,カラダは修行依存である。
    この認識は,「修行損失」の認識に進む:
     《 いまの自分は,ある修行をしていない自分である。
    その修行をすることは,別の「数学教育学」をつくることである。
    したがって,いま自分がつくっている「数学教育学」は,修行損失の体(てい)である。