Up 「数学教育学」達観 作成: 2014-11-24
更新: 2014-11-27


    「数学教育学は数学教育学でなくてよい」

    「数学教育学」をする者にとって,「数学教育学」の意味は自分のカラダづくりである。
    自分の鍛錬として「数学教育学」を行う。
    人や社会のためではない。

      自分の行う「数学教育学」は,人や社会のためになるというものではない。「ためにはなる」を言えば,「人や社会の迷惑にはなるが,ためにはならない」となる。
      どういうこと?
      ひとは「役に立つ」をしようとする。その行うことは,一つの極を択って,それを敷くことである。これは,他を退けることである。
      実際,「改革」を立てる者は,世代忘却の体(てい)で,昔から相変わらずの「A v.s B」の対立図式を持ち出し,一方の側につき,これを敷こうとする者である。
      現前は事物の均衡相であるから,<一つ>を敷延しようとすることは,<強引>になる。<強引>は, 「迷惑にはなるが,ためにはならない」となる。

    「数学教育学」は,自分のカラダづくりのために用いるもの,鍛錬として用いるものであるから,これは手段である。
    目的に至れば捨てられる階段である。
    したがって,「数学教育学」は数学教育学である必要はない,となる。

      「数学教育学」は数学教育学でなくてよいとなると,自分が「数学教育学」を択ったのは得だったのか損だったのかが,自問されてくる。
      これは,「数学教育学」は鍛錬の階梯としてどうなのかという問いである。

      ひとは自分の修行経験を結果オーライにするものであるが,それでも「数学教育学」は鍛錬の階梯として不足はない。
      数学教育学は,守備領域がとんでもなく広い。
      よって,これに携わることは,修行項目が多岐にわたるということである。( II 部「修行項目」)
      そしてこれは,自分の世界がいくらでも大きくそして深くなっていくということである。


    「数学教育学をしないために数学教育学をする」

    数学教育学をするのは,修行である。
    修行として行っているその数学教育学は,修行の未熟な相である。
    修行が極まることは,その数学教育学をしなくて済むようになることである。
    こうして,修行は,数学教育学をしないために数学教育学をするものである。