Up <数学> : 要旨 作成: 2014-12-10
更新: 2014-12-10


    「数学教育学専門」では,「数学をわかっている」が必要になる。
    アタリマエ?
    では,どうアタリマエ?

    「数学教育学専門」の機能的意味は,「学校数学をわかっている」である。
    そして,学校数学を捉える視座が,数学である。
    「数学教育学専門」における「数学をわかっている」の必要の意味は,これである。

    学校数学を捉える視座は,学校数学ではない。
    学校数学は,没論理をやる。
    学校数学を捉える視座を学校数学にすることは,没論理で没論理を捉えようとすることである。

    数学教育学専門に入ってくる者には,教育畑出身と数学畑出身の2タイプがある。
    ここで教育畑出身者の場合,「数学の修行」の課題は,どうしてもひどく荷の重いものになる。
    ひとは,時間のかかることを先送りにする。
    手近なもので済まそうとする。
    「数学の修行」も,この類になってしまう。
    こうして,「学校数学で学校数学を捉える」をやってしまう。
    大学院生だと,学校生徒と同じように算数・数学科教科書で算数・数学科の内容を「理解」している者も,いるかも知れない。

    「学校数学で学校数学を捉える」をやるとどうなるか?
    学校数学は,思いつきが闊歩するところとなる。
    思いつきが思いつきを呼び,学校数学は思いつきが蹂躙するところとなる。
    「二重数直線」のような思いつきの類が,やがて教科書に載るようになる。

    是非を言っているのではない。
    ダイナミクスとしてこうなるということである。
    よって,上の流れは,それはそれで受け入れるものでもある。
    ただし,受け入れるにしても,「受け入れる」を考えられるのは「ダイナミクス」の考えがあってのことであり,「ダイナミクス」の考えは「学校数学-対-数学」の考えがあってのことであり,そして「学校数学-対-数学」の考えは「数学」の捉えがあってのことである。

    こういうわけで,ここで改めて,<数学>の修行の必要を論ずる。