Up | おわりに | 作成: 2017-09-04 更新: 2017-09-04 |
一方「数学教育学者」は,数学教育を<わかろうとする対象>に据えていない様である。 数学教育は彼らにとって,いじる対象の如くである。 「数学教育をわかろうとする」のいちばんのカテゴリーは,「数学教育がなぜこのようであるかをわかろうとする」である。 「数学教育学者」が数学教育をわかろうとする対象に据えないのは,数学教育に対する「ある法則のもとに変化しているダイナミックな系」の認識が無いためである。 数学教育と数学教育学の違いは,後者が科学だということである。 科学は,結局物理学である。 この物理学のスタンスが,数学教育学ではスッポリ抜け落ちている。 また,数学教育の問題には,これを解く方法が「研究」になるものと,そうでないものがある。 例えば,「どう教えたら生徒はわかるようになるか」は,「研究」で解けることではない。 実際に授業することで解けることである。 数学教育学は,出る幕でないところに出てくることで,安っぽくなる。 「教材開発」も,「どう教えたら生徒はわかるようになるか」をこれの意味にするときは,数学教育学者の出る幕ではない。 数学教育物理学に関心のない「数学教育学者」は,ではどんなことに科学を感じているか。 例えば,スキーマがどうのストラティジーがどうのの「認知科学」である。 「認知」がスキーマがどうのストラティジーがどうのでないことは,自分の数学の勉強を観察すればわかる。 数学教育学の主題になる「認知」は,スキーマがどうのストラティジーがどうのの類ではない。 スキーマがどうのストラティジーがどうのとやり出すのは,物理学の感覚を欠いていることが原因である。 虫の行動を観察せよ。 特に,こちらの作用に対しどう反応してくるかを観察せよ。 虫は,いかにも思案して行動しているように見える。 スキーマやストラティジーが働いているように見える。 しかし,脳の神経ネットワークモデルや虫の脳の容量・特徴に思いを致すことができれば,そんなはずのないことがわかる。 この場合は,基本的な反応が合わさることで「知性」に見えるものが現れてくるということである。 数学学習の「認知」も,このようなものである。 それは,アタマが勝手に動き出すというものである。 どうすべきかをアタマに教えるアタマは存在しない。 勉強は,勝手に動き出してくれるアタマをつくる営みである。 数学教育学/科学として「認知」をやるとは,このようなレベルでやることである。 辞書を引き引き,ことばの含意関係図をそのままスキーマやストラティジーの系統図に写すというのは,数学教育学ではない。 数学教育学は,科学としてやることが山ほどある。 しかし「数学教育学者」は,それはしない。 難しいからである。 難しいから,安直に流れる。 しかし,例えば自然科学系の研究者がどんなふうであるかを考えるとよい。 面倒で先の見えない作業を忍耐強くやっている。 彼らは難しいことにチャレンジしている。 それが,科学するということだからである。 本テクストは,「数学教育学者」が安直であることを述べてきた。 それは,現状ではこの安直を知ることから数学教育学者であることが始まるからである。 |