Up | はじめに | 作成: 2018-02-28 更新: 2018-02-28 |
これを,何かを行うのメタ論と謂う。 物理法則をつくる営みに対し,「物理法則をつくる」とはどういうことかと考える。 これは,物理法則のメタ論である。 「テンソル」は,物理法則のメタ論をやるときに出てくる概念である。 実際,「物理法則の構造は,テンソルだ」というふうに出てくる。 よってその概念は,物理法則のメタ論そのものである。 こうして,物理に携わる者・物理を探求したいと思う者にとって,「テンソル」は必修科目になる。 「テンソル」を学習しようとする者は,学習テクストを求める。 学習テクストは,書籍およびオンラインテクストである。 しかし,テクストは,彼らをリードするものではなく,ミスリードするものである。 こうして彼らは,「テンソルって何だ?」の問いを,きまって発する者になる。 「テンソルって何だ?」の問いに対しては,これに答えようとするテクストが現れる。 しかし事情は,学習テクストと同じになる。 思いつきを書き散らすというものであって,ミスリーディングの状況をいっそう悪くする。 思いつきを書き散らす 「テンソルって何だ?」の問いは,what, why, how をすべて含んだ問いである。 学習者は,「なにがなんだかだっぱりわからない」になっている者であり,「テンソルって何だ?」は「なにがなんだかだっぱりわからない」の訴えである。 この問いに対する答えの核は,what である。 実際,why は what に対する why であり,how は what に対する how である。 what を述べる形式は何か。 数学がこの形式を開発した。 それは,「構造」である。 「構造」は,現象に対し本質を区別する概念である。 本質を「構造」とし,現象を「表現」とする。 こうして,構造論と表現論が分けられることになる。 これは,本質論と現象論をごっちゃにさせないという意味をもつ。 こうして,「テンソルって何だ?」に対する答の形は,what の答えが核心であり,そしてそれは「テンソルとはこういう構造のことを謂う」である。 「構造」のことばによる「テンソル」の定立は,どこにあるか。 数学の「テンソル積」が,これである。 実際,この他には無い。 そこで,「テンソルって何だ?」に対する what の答えは,数学の「テンソル積」である。 「テンソル」の学習テクストは学習者をミスリードするばかりだが,これはもっともなことで,数学の「テンソル積」の考えが無いのである。 ただし,数学の「テンソル積」は,「テンソル」と呼ばれてきたものすべてを収容する概念ではない。 ここが注意すべき点である。 「テンソル」は,数学がこれを定式化するより前にあったものである。 数学の定式化は,慣習 (プラグマティクス) の定式化である。 慣習 (プラグマティクス) の定式化では,これから漏れるものが出てくる。 テンソルの代表のように受け取ってしまいそうな「計量テンソル」が,まさにこれである。 よって,定式化から漏れるものは,無視してよいものではない。 そこで,「テンソルって何だ?」に対する what の答えでは,「テンソルと呼ばれてきたもののうちには,非テンソルがある」を言わねばならない。 ここで留意すべきは,「テンソル積」を土台に据えることである。 「テンソル積」から漏れる「テンソル」があるということは,「テンソル」論はあれやこれや論になるということではない。 ──尤も,「テンソル」の学習テクストの混迷は,土台に据えるべき「テンソル積」を こういうわけで,「テンソル」の what 論をここに提供する。 構成を見てのとおり,小学数学に出てくる量の公式をテンソル積として解説することが,このテクストの中心になっている。 読者にとって何を論じているかがよくわかるだろうし,実際「テンソル」のネタはこれですべて揃うからである。 もっとも,数学の「準同型・同型」「同値類」の概念に疎遠な読者の場合は,難しいと感じるところはあるだろう。 本テクストは,「テンソルの基底・座標」の章で終わる。 これは,「量の公式を適用する数値計算は,単位依存」の一般論として措くものである。 これは,「テンソル」の学習テクストの主要部分になるところの「座標変換」ではない。 「テンソル」の学習テクストの「座標変換」は,「可微分多様体」「テンソル場」を文脈とする「座標変換」である。 これを扱うには,「可微分多様体」の枠組のもとで,仕切り直しをしなければならない。 この仕切り直しは,《テンソル」の意味を理解していることが,この内容に進む要件になる》というものである。 よって,「前もって「テンソル」の理解を確かなものにしておけ」となるわけである。 こういうわけで,本テクストは,「テンソルの基底・座標」を終章として終える。 実際,ここまででも,十分な 「可微分多様体」の枠組のもとの仕切り直しは,別テクストを以てする。 (予定 :『「リーマン多様体」とは何か』) 「テンソル」の学習テクストは,「テンソルの基礎」から「座標変換/可微分多様体」へ切り替える構成も,まるでなっていない。 「すべてにおいて中途半端」という 本テクストは,学習テクスト批判を併せて行う。 学習テクスト批判は,本論の中でも折に触れて繰り返される。 なぜか? 学習者を,学習テクストのミスリーディングから救おうとするためである。 学習者は,学習の躓きを自分のせいにする者である。 初心者であるとは,権威主義者だということである。 彼らは,学習の躓きを授業者や学習テクストのせいにすることを知らない。 そこで,彼らには「問題は,授業者や学習テクストの方にある」を改めて言ってやらねばならない。 よくよく知るべし。 学習テクストをつくる者は,<わかっているからつくる>者ではない。 彼らは,<つくる立場にあるのでつくる>者である。 「専門」とは立場のことである。 |