Up イデア論 作成: 2009-04-30
更新: 2009-04-30


    「イデア論」は,哲学的立場という以前に,論述の方便である。
    「集合を一つ例示する」を自分でやってみれば,このことがすぐにわかる。
    すなわち,「これこれを要素とする集合」は,「これこれ」を「イデア」ということにしなければ,定義できない。

    例えば,「3つの国を要素とする集合{日本,アメリカ,ケニア}を考えよう」と言われた。
    受け容れた後で,「まてよ」と考える。
    「日本」「アメリカ」「ケニヤ」って何だ?

    考える対象が漠然としているという問題か?
    では,「わたしがいま持っているこの鉛筆」だったらだいじょうぶか?
    しかし,「わたしがいま持っているこの鉛筆」とは何か?
    物質を元素レベルまで考えても,「わたしがいま持っているこの鉛筆」という対象は保持できるのか?

    具体的なものだからだめなのか?
    自然数の2,3,4を要素とする集合{2, 3, 4}だったらだいじょうぶか?
    しかし,このときは「2」「3」「4」と言ったり書いたりしている。
    ひとによって発声も違うし,字体も違う。
    発声や字体関係なしの「2」「3」「4」を,どう考えたらいい?

    そこで,「ええい,めんどうくさい!」になる。
    そして,つぎのように約束する:
      「ことば・表現」の了解において仲間内で不具合がないときは,
      自分らの「ことば・表現」は存在を一意的に指しているということにしよう!

    このゲームは,イデア論をやっていることになる。
    集合をやれば,イデア論のゲームをすることになるのである。