1.1.4 映像としての量



 量は人の実践──行為──の上に示される。量を対象化することは,人の行為の一定の形式を対象化することである。

 特に,量は人の行為の原因ではなく結果である。《量という存在が既にあり,それの本質として量形式が抽出される》というのではない。量形式の実体化された相が“量”である。

 認識論的に言えば,量形式で把捉されたものが量である──この意味で,量は量形式の原因ではなく結果である。素材に量形式が投げかけられて浮かび上がる像が量である。量とは,量形式で映し出された素材の像である。

 例えば“長さ”は,机のへりをものさしで測る,机の二つのへりに長さの比を読む,といった実践の形式で映し出される机の像である。

 そこで,“量”の定義は,〈人の実践形式としての量形式〉の定義である。

 さらにわたしは,《この実践形式は,徹頭徹尾“数”の使用形式である》と考える。量の性格は,使用する数によって最初から決定されている。例えば“長さ”は,係数として使用する数(通常,実数)が稠密でありアルキメデスの公理を満たす故に,稠密でありアルキメデスの公理を満たすのである。