2.4.2 “保存性”の主題化の錯誤



 “量の保存性”は,〈存在に関する事実〉として主題化されるものではない。それは,生活の中に占めるべき位置をもたない無意味な発想の一例として,せいぜい言語ゲーム論の一主題になるようなものである。

 “重さの保存性”を例に,このことを見ておこう。

 重さの保存性は,“粘土玉を伸ばしても重さは変わらない”といった言い回しで語られる。

 いま,粘土玉を伸ばして重さが変わったとしよう。はかりについては疑わないとすれば,われわれはこの事態に対しどのように反応するか。少なくとも,重さに対する考え方を改めるということはしない。世の中がおかしくなったか或いは自分がおかしくなっていると考えるのが自然である。──朝目覚めると周りの物がみな2倍の大きさになっていたとしたら,どうだろう。われわれは物の大きさに対するこれまでの考え方を改めるということをするだろうか。そうはしない。何かがおかしくなったと考えるのみである。“重さの保存”の崩壊は,これと全く同じ種類の出来事なのである。

 “粘土玉を伸ばすと重さが変わる”という事態は,重さに対する考え方を修正するものにはならない。粘土玉を伸ばすことで変わる“重さ”は,われわれの“重さ”とは無関係な何か他の概念(たまたまことばが同じな概念)ということになるのみである。この意味で,重さは,《粘土玉の伸長によって変わる》ということができないのである。したがって,“粘土玉を伸ばしても重さは変わらない”という言い回しは無意味なのである。ウィトゲンシュタインの言い方に倣えば,この言い回しはわれわれの生活──言語ゲ−ム──において占める場所をもたないのである。

 繰り返すが,重さは《粘土玉の伸長によって変わる》ということができない。それが変わるとは,世の中が変わるということである。実際,このときには,重さが関わる生活がすべて破綻する。(はかり売りが無効になる,体重が無効になる,・・・・。)

 重さに対して生活が展開されるというのではない。生活の形態の一つが重さなのである。再びウィトゲンシュタインに倣って言えば,重さは言語ゲ−ムの中にある。そしてこの言語ゲ−ムでは,“粘土玉を伸ばしても重さは変わらない”の言い回しは,端的に無意味なのである。それは,奇妙な,病的な言い回しであり,あり得ない言い回しなのである。

 “重さの保存性”のことばを言い出すとすれば,それは,《重さの言語ゲ−ム》という主題に対してである。“重さはしかじか”という形で重さを論じるときのその主題の名を《重さ》と言うことにすれば,“重さの保存性”は《重さ》の内容にはならない。“重さはしかじか”のつもりで“重さの保存性”を言い出すことは出来ないのである──《あり得ない言い回しである》という理由で。