Up はじめに 作成: 2010-10-12
更新: 2010-10-13


    教職の普通の環境では,教員は「研究授業・研究大会」の多様性をいろいろ経験することになる。 「研究授業・研究大会」といってもいろいろであることがわかってくる。 そうすると,研究授業・研究大会に出会うその都度これを適切に相対化するということも,できるようになっていく。

    このことを見方を変えて言えば,つぎのようになる:
      適切に相対化できるかどうかは,経験値に依存する。
    実際,研究授業・研究大会に初めて出会う者は,「研究授業・研究大会」とはこういうものであると思ってしまう。
    もし同じところに初めからずっと留まっていれば,そこで出会っている研究授業・研究大会が「研究授業・研究大会」ということになる。


    現前の研究授業・研究大会は,時代の風潮を反映している。 時代によって,ずいぶん違ったものになる。
    それは,地域の風潮も反映している。 地域によって,ずいぶん違ったものになる。
    また,それは,研究組織のライフサイクルの中にある。 組織の隆盛期,成熟期,衰退期のそれぞれで,研究授業,研究大会の様相がずいぶん違ってくる。

    研究授業・研究大会はいろいろであるが,その「いろいろ」の決定的要素になっているものは,批判である。 批判がそこではどのようになっているかで,研究授業・研究大会の傾向性がつかめてくる。


    研究授業・研究大会の運営が軌道に乗るようになると,つぎの段階として,惰性化がやってくる。 すなわち,研究授業・研究大会のルーチンをこなすことが,研究授業・研究大会の意味になる。
    そしてこの局相において,批判の急速な衰退が起こる。

    研究授業・研究大会は,批判が失われていくことで,みながつまらなく感じるものになる。 そこでさらに惰性で続けるものになり,悪循環の構造がつくられ,衰退の一途を辿ることになる。
    こういうわけで,研究授業・研究大会を大事にしようとする者は,批判を何よりも大事に思う者になる。批判の衰退を警戒する者になる。 そして,批判の活発化・衰退の意味・力学を考えることになる。


    批判が無くなるとは,批判の憚られる雰囲気がつくられるということである。
    批判が憚られるのは,どうしてか?
    批判がそこでは人間関係を拙くするものになっているからである。
    批判が人間関係を拙くするのは,どうしてか?
    「批判を自分の糧にする」という在り方が,共有されていないからである。
    共有されていないいのは,どうしてか?
    個人レベルで,「批判を自分の糧にする」という在り方が知られなくなっているからである。
    知られなくなっているのは,どうしてか?
    「批判を自分の糧にする」という在り方を,教えられていないからである。
    また,この在り方を自ずと知るようになる環境が,無くなっているためである。

    実際,「批判を自分の糧にする」という在り方を教えられるのは,「批判を自分の糧にする」の事態を目撃することによってである。 このような事態に出会う機会がなければ,「批判を自分の糧にする」を知らないで生きてしまう。
    そしてこれが,まさに悪循環の形成になる。


    ここしばらく,自分の知る昔には無かった現象に頻繁に出会うようになった。 その一つに,《研究授業の反省会での参加者は,自分の発言を,授業者に対し「授業を見せていただき,ありがとうございました」を言うことから始める》というのがある。
    これは,よいマナーとされているようである。 すなわち,これをしないのは,行儀知らず,ないし尊大ということになるようである。 しかし,この行為の根底には,研究授業・研究大会が何かをよくわかっていないということがある。
    研究授業・研究大会が何かをよくわかっていないと,礼儀・謙虚の表現のつもりで,礼儀・謙虚のはき違えをやってしまう。 そして,この礼儀・謙虚のはき違えが,批判が憚られる雰囲気の醸成のいちばんのもとになっている。

    そこで,改めて批判復権の論をつくることにした。
    つぎが,この小論の主旨である:
      批判を失うときが,研究授業・研究大会の最期である。
    研究授業・研究大会の要諦は,批判の活性を保つことである。