Up 流行に対しては,批判的に 作成: 2010-10-14
更新: 2010-10-14


    学校教育は,そのときの流行に乗っている。
    流行が学校教育を駆動している,とも言える。

    学校教育の流行の契機は,学校と直接つながるものということでは,文科省の『学習指導要領』である。 この中の文言に,教科書会社をはじめとする教育ビジネス,地方の教育行政が,敏感に反応する。 そしてこの動きに,学校が敏感に反応する。

    敏感は,過敏・過剰に進む。
    「○○を大事にする」という文言に出会ったら,教育を○○で一色にしてしまう。
    ○○の重要度を相対的に見積り,その相対的重要度に見合った扱いをするということをしない。

    研究授業は,いま広く課題になっていることを,課題にしようとする。 その課題は,ここに述べたように,だいたいが過剰な反応を呼び込んでいる課題である。 そこで,研究授業も,過剰な反応に与する格好になってしまう。


    ちなみに,いまは「活動・コミュニケーション」が流行りである。
    算数科・数学科の授業で,教員は問題を提示し,生徒をグループに分け,グループの中で問題解決の話し合いをさせ,グループの結論をつくらせ,そしてその結論をプレゼンさせる。

    この学習活動では,<考える>が失われる。
    話し合うと考えるは違う。 数学の<考える>は,基本的に沈思黙考のことである。 これが捨てられてしまう。

    しかも,話し合いとしてやっていることは,デモクラシーである。 組織の合意をつくるということを,やっているのである。
    この合意形成では,人間関係そして強い意見・大きい声が重要な要素になる。

    数学は,この意味のデモクラシーのアンチである。
    人間関係そして強い意見・大きい声を却ける方法として,論証を開発したのである。 論理を正しく運用して結論を演繹する1人は,この結論に反対する99人よりも強い。 デモクラシーを勉強させるのなら,算数科・数学科とは別の教科でやるべきなのである。

    さて,この授業は,「活動・コミュニケーション」に多くの時間が費やされる。 グループの結論を回収したときには,時間がわずかにしか残っていない。
    本当なら,生徒の意見を回収してそれからが,数学を学ぶステージである。 教師はこれをとばし,強引なまとめに入っていく。 この一連に,数学は無い。

    「活動・コミュニケーション」は,学習活動の重要な要素である。 問題は,それの程度である。 いまの「活動・コミュニケーション」は,ひどくやり過ぎている。 ──もっとも,やり過ぎは学校数学のつねでもある。