Up 教育実習事後指導テクスト 作成: 2008-10-03
更新: 2011-10-20


0. はじめに

1. 「絵事後素」

2. 授業の肝心要
 2.1 授業の肝心要を失する
  2.1.1 教員は,授業の肝心要がわからない
  2.1.2 生徒は,要領が得られず理解放棄
  2.1.3 教員は,生徒の理解放棄を感受できない
  2.1.4 教員は,生徒の理解放棄の理由がわからない
 2.2 「肝心要」の内容
  2.2.1 主題のとらえ
  2.2.2 課題の提示,作業の指示
 2.3 失敗学
  2.3.1 授業の肝心要は,授業を失敗してわかる
  2.3.2 失敗に気づくのも能力のうち──修行のたまもの

3. 「理解放棄」
 3.1 生徒は「わからない」を自分のせいにする
 3.2 教員は「生徒には難しい」で片づける
 3.3 生徒も教員も「理解放棄」に慣れる
 3.4 「理解放棄」を身につけた者が新たに教員になる

4. 教員は,生徒を壊しながら成長する
 4.1 教員の成長は,職人の成長──長期スパン
 4.2 教員は,生徒を壊しながら成長する
 4.3 生徒は,先生の当たり外れを余儀なくされる

5. 自己鍛錬 (修行)
 5.1 「授業は難しい/失敗する」の受けとめが弱い
 5.2 「教員は生徒を壊しながら成長」の受けとめが弱い
 5.3 「数学は勉強しないのが普通」がムードに
 5.4 せいぜい「自己鍛錬しているつもり」
 5.5 独りではだめ──指導者・共同研鑽体制が必要


    0. はじめに

    教育実習の後,「事後指導」と称する指導が行われる。
    この指導の理由は,つぎの2つである:

    1. 事後に初めて可能となる指導を行う。
    2. 学生の勘違いを正す。

    そして両方とも,指導内容は「失敗」の意味である。

    ひとは,失敗から学ぶ。
    教職でもそうである。
    教育実習で,学生は失敗を経験した。 よって,いまは「失敗」について指導することができる。
    これが,「事後に初めて可能となる指導を行う」の意味である。

    では,「学生の勘違いを正す」の方は,どういう意味か?

    学生は,つぎのような勘違いをする:
    1. 授業がうまくできた。うれしい。自信がもてた。
    2. 授業に失敗した。がっかり。
    先ず,「授業がうまくできた」は,まったくの勘違いである。
    勘違いしたまま大学に戻って来れたということは,実習校に問題ありということになる。 すなわち,その学校にはプロフェッショナルがいなかったということになる。

    「授業に失敗した。がっかり。」
    これに対しては,つぎのように答えてやることになる:
      うまくいったら,たいへんですよ。

    授業でこっぴどく失敗し,指導教員らからコテンパにやられ,精神的にぐったり疲れ,奈落に落ちた気分になったアナタ,おめでとう。アナタは,とてもよい経験をすることができました。
    実際,教育実習に行くとは,この経験をしに行くことである。


    1. 「絵事後素」

    「絵事後素 (絵事は素の後にす)」(論語, 八いつ)。
    これをつぎのように読んでみる:

      自分の「素」がついていっていないような「絵」を書こうとするな!
      「絵」を書くときは,自分の「素」がどうなっているかを見ろ!

    例えば教育実習で算数/数学の授業をするときは,
      絵=数学の授業
      素=自分の数学の力
    とおいてみる。
    「絵事後素」に照らせば,自分はひどい無茶/無理をやっているわけだ。

    自分を<教科の主題理解のための学習>へ向かわせることが,先。
    「絵事後素」を,この自戒の訓としよう。


    2. 授業の肝心要

    2.1 授業の肝心要を失する

    2.1.1 教員は,授業の肝心要がわからない

    一般に,ひとが肝心要 (かんじんかなめ) をとらえる局面は,いろいろやった最後のところで来る。
    数学を例にすると,「構造」のとらえで数学全般がとらえ直されるようになったのは,つい最近のことである。 「関数」の概念が「一意対応」に還元され,すっきりした形になったのも,つい最近のことである。
    物理では,統一場の理論の構築が目指されている。

    人が先ず目(ま)の当たりにするものは,混沌である。
    この混沌から肝心要 (ファンダメンタル) を抽き出す。
    これができるようになるのには,多くの経験の蓄積 (歴史) を要する。

    算数/数学の授業もそうである。
    知識・経験が十分でなければ,授業の肝心要がわからない。
    肝心要を外した/欠落した授業をやってしまう。
    そして,そのことに気づかない。



    2.1.2 生徒は,要領が得られず理解放棄

    肝心要を外した/欠いた授業は,生徒をブレイクダウンさせる。
    教室にどんよりした空気が漂う。

    教員は,このような生徒を見て,説明を重ねる。
    説明になるはずのない説明は,事態をさらに悪化させる。

    すなわち,生徒は,完全に理解放棄をする。
    いまの局面が過ぎ去って,先生がつぎに何かまとめてくれることを,ただ待つ。



    2.1.3 教員は,生徒の理解放棄を感受できない

    肝心要を外した/欠いた授業で,生徒はブレイクダウンする。
    そして,理解放棄する。
    局面が過ぎ去るのをただ待つ体勢になる。

    しかし,教員は,生徒の理解放棄を正しく感受できない。
    生徒を置いたまま,授業を進めていく。



    2.1.4 教員は,生徒の理解放棄の理由がわからない

    肝心要を外した/欠いた授業をする教員には,「肝心要を外した/欠いた授業をしている」という思いは起こらない。 したがって,生徒の側の理解放棄の原因・理由を,間違った形に解釈する。
    すなわち,「内容が難しい・わかりにくい」が生徒のブレイクダウンの原因・理由である,と解釈する。

    そこで,「説明」を重ねる。(それは,説明にならない説明である。)

    また,「わかりやすくする」のつもりで,「具体物」をいろいろ持ち込む。
    ところが,「具体物」は,はなしをややこしくするだけ。
    (実際,ややこしいのをすっきりさせるために,数学をやっているわけである。)

    こんな調子に終始して,肝心要にはついぞ意識が向かない。



    2.2 「肝心要」の内容

    2.2.1 主題のとらえ

    教科教育では,算数/数学の授業が簡単だと思われている。
    こんな調子である:
      「算数の問題なら,自分は100点をとれる。 中・高の数学も,まあわかる (昔やったことを思い出せばよい)。」
      「算数・数学の授業は,計算を教えて,できるようにすればよい。 いろいろ調べたりする必要がない。」

    彼らは,算数/数学の各主題の意味を考えるということを知らない。
    自分では,意味を考えていると思っている。
    しかし,「意味を考える」ということを知らないで意味を考えているので,主題のとらえでは肝心要を外して/欠いてしまう。


    主題の意味を考えるとは,先ずその<数学>を知ることである。
    しかし,彼らは決してこれをしない (やろうとしない)。
    なぜ?
    こんな調子であるから:
      「算数の問題なら,自分は100点をとれる。 中・高の数学も,まあわかる (昔やったことを思い出せばよい)。」
      「算数・数学の授業は,計算を教えて,できるようにすればよい。 いろいろ調べたりする必要がない。」

    よって,
      算数の授業は,教員が小学生のアタマでこれをやる。
      中学数学の授業は,教員が中学生のアタマでこれをやる。
      高校数学の授業は,教員が高校生のアタマでこれをやる。
    すなわち,
      算数の授業は,小学生の「数学の授業ごっこ」。
      中学数学の授業は,中学生の「数学の授業ごっこ」。
      高校数学の授業は,高校生の「数学の授業ごっこ」。


    主題のとらえで肝心要を外し/欠き,この状態をそのまま授業に持ち込む。
    そして,荒唐無稽を教えてしまう (荒唐無稽の受け入れを生徒に強制)。

    例えば,「分数」の授業の肝心要は,つぎのことの明示/明言である:
      「分数とは,稠密な2量の比を,二つの自然数の組を用いて表すというアイデアのこと」
    また,「正負の数」の授業の肝心要は,つぎのことの明示/明言である:
      「正負の数とは,正逆2方向をもつ2量の比を,<絶対値の比>と<方向が同じ・逆>の二つの情報の組で表すというアイデアのこと」
    しかし,これを知っている/やっている/できている教員は,割合的にゼロである。

    また,「÷」の授業の肝心要は,つぎのことの明示/明言である:
       「÷ はつぎのように使う記号である: □とかけて△になる数を △ ÷ □ と表す」
    これができていれば,「÷0」に荒唐無稽な解釈を立てるといったこともなくなる。 「÷ 分数」を「分ける」で考えて,アタマをぐちゃぐちゃにするといったこともなくなる。
    しかし,これを知っている/やっている/できている教員は,割合的にゼロである。


    指摘されればだれもが「当然であり,また,当然行っているはずだ」とする肝心要も,自分では外してしまい,そしてそのことに気づかない。

    例えば,教員ならみな「量の比を自分は正しく扱っている」と思っている。
    しかし,事実は全くそうでない。

    「数・量」の各主題は,どれも「量の比」を骨格にしている:
      量 Q は量 U の何倍か? (量 Q の量 U に対する比は?)
    量 U のn倍の量 Q はどんな?
    n倍すると量 Q になる量 U はどんな?
    Uは「もとにする量」,Q は「比べられる量」,nは「比」と,それぞれ呼ばれる。

    この「量(U)─数(n)─量(Q)」の骨格をきちんと扱える教員には,先ず出会わない。
    不思議なことに,たいていの教員が「U を1と見る」のような言い回しを使う。
    そしてこれにより,「量の比」の単純骨格を見えなくしてしまう。



    2.2.2 課題の提示,作業の指示

    「課題の提示,作業の指示を,きちんと行う」──これは,授業の肝心要である。
    しかし,これができない。

    この「できない」には,大きくつぎの二つのタイプがある:
    1. 「課題の提示,作業の指示を,きちんと行う」の概念がない
    2. 「課題の提示,作業の指示を,きちんと行う」を自分ではやっているつもり


    構造化ができていない授業案をつくってしまう者がいる。(教員養成系学部の学生の授業案づくりは,最初からしばらくの期間,こうである。) これは,Aタイプである。
    彼らは,ものがだらだら流れるような授業案をつくる。
    授業案づくりで彼らが考えるのは,つぎの類:
      わかりやすくするために,どんな具体物を出すか?
      いろいろな考えを,どうやって引き出すか?
      線分図がいいか面積図がいいか?

    B は,自分が見えていない,コミュニケーションがよくわかっていない,ということである。
    これは,「経験不足」の問題。 ──経験を積むことで,改善されていく。また,「経験を積む」以外に方法はない。

    ただし,つぎの二つは別のことである:
      「課題の提示,作業の指示を,きちんと行う」ができているかどうか
      その内容が当たっているかどうか
    後者は,「主題の理解」に関わってくる。( 主題のとらえ)



    2.3 失敗学

    2.3.1 授業の肝心要は,授業を失敗してわかる

    授業の肝心要を推理で正しく当てるのは,ほんとうに難しい。
    実際,肝心要は,「授業に失敗することで,見つかる」といったものである。



    2.3.2 失敗に気づくのも能力のうち──修行のたまもの

    授業の肝心要は,「授業に失敗することで,見つかる/新たに見つかる」といったものである。
    ただし,あくまでも,失敗に気づくことができてのはなし。

    失敗に気づくこと自体が,能力である。
    そしてこの能力は,修行のたまもの。
    失敗学は,能力があってできることである。


    3. 「理解放棄」

    3.1 生徒は「わからない」を自分のせいにする

    肝心要を外した/欠いた授業は,生徒に理解放棄をさせる。

    生徒は,教員の授業の方に問題があるとは思わない。
    自分がわからないのだ,と思う。
    わからないのは,自分のせい。



    3.2 教員は「生徒には難しい」で片づける

    肝心要を外した/欠いた授業は,生徒に理解放棄をさせる。

    教員は,自分の授業の方に問題があるとは思わない。
    内容が生徒にとって難しいのだと思う。
    生徒がわからないのは,内容の本来的難しさのせい。



    3.3 生徒も教員も「理解放棄」に慣れる

    生徒も教員も「理解放棄」に慣れる。
    そして,「理解放棄」が授業の常態になる。

    教員は,授業の失敗に意識を向けないことに慣れる。
    したがって,授業の肝心要に意識を向けることも,できないままとなる。



    3.4 「理解放棄」を身につけた者が新たに教員になる

    教員養成系大学・学部に入ってくる学生も,「理解放棄」を身につけた者たちである。 彼らは,「わかる・わからない」ということがわからない。 「○○とは何か?」「なぜ○○か?」という形の問いを知らないで,ここまで来ている。

    大学は,「○○とは何か?」「なぜ○○か?」という形の問いを起こす場である。 学生がこれに対応できるためには,既にできあがってしまったカラダを改めるような鍛錬をよほどしっかり心掛け,そして実践しなければならない。

    しかし,「心掛ける・実践する」の内容自体がよくわからないということもあり,大方はこの鍛錬をパスしてしまう。
    大学においても「理解放棄」を身につけた者として過ごし,さらには「理解放棄」を一層強化してしまう。

    こうして,「理解放棄」を身につけた者たちが新たに教員になる。
    「理解放棄」を身につけた教員は,生徒にも「理解放棄」を身につけさせる。
    ──「理解放棄」の再生産。


    4. 教員は生徒を壊しながら成長する

    4.1 教員の成長は,職人の成長──長期スパン

    教員の成長は,職人の成長である。

    「教員」という技は,難しい技である。
    教員として成長することは,簡単なことではない。
    一歩一歩の成長に長い時間を要する。
    その歩みを急ぐことはできない。近道もない。
    「王道を歩む」のスタンスで,ひたすら修行するのみである。



    4.2 教員は,生徒を壊しながら成長する

    陶器職人は,「作っては失敗し,壊す」を繰り返して成長する。
    すなわち,失敗から学んで成長する。
    失敗は,無ければよいものではなく,最初から必要としているものである。

    教員もこれと同じである。
    「作っては失敗し,壊す」を繰り返す。
    そして,生徒もこの中で壊される。

    教員は,生徒を壊しながら成長している。
    教員が成長するとは,こういうことである。
    是非の問題ではない。

    そして教員は,このことをしっかり自覚する者でなければならない。



    4.3 生徒は,先生の当たり外れを余儀なくされる

    生徒は,教員の成長に付き合わされる。
    その中で,壊される。

    未熟な教員にあたれば,被害は大きくなる。
    生徒は,先生の当たり外れを余儀なくされる。

    教員は,このことをしっかり自覚する者でなければならない。


    5. 自己鍛錬 (修行)

    算数・数学の授業は,ひじょうに難しい。
    しかし,このように受け取られていない。

    難しいと受け取っていないので,自己鍛錬 (修行) に向かおうとしない。
    成長がないので,怪しげな授業を (怪しげなことをやっているという意識がなく) 延々と続けてしまう。



    5.1 「授業は難しい/失敗する」の受けとめが弱い

    困難・失敗を受けとめることは,それ自体能力である。
    能力がなければ,困難・失敗がわからない。
    特に,授業は奥が深いので,これの困難・失敗を正しく受けとめることは難しい。

    困難・失敗は,<おおもと>に発する。
    しかし,<おおもと>であるほど,捉えが難しくなる。
    経験の浅い者が困難・失敗として述べるものは,どれも<瑣末>である。

    実際,教育実習生が自分の授業の困難・失敗として述べるものは,たいてい,的外れである。 そしてそれらはどれも瑣末事なので,自分の授業は「まあまあの出来」ということに落ち着く。 ──中には,「すごくよくできた」と勘違いしたままの者もいる。



    5.2 「教員は生徒を壊しながら成長」の受けとめが弱い

    教員は,肝心要を外した/欠いた授業をやってしまう。
    生徒はブレイクダウンし,「理解放棄」の体質をまた一つ強化する。

    しかしこれは避けられない。( 教員は,生徒を壊しながら成長する)
    そこで大事なのは,「失敗授業で生徒を壊した」と受けとめられることである。

    これに対し,経験の浅い (能力の低い) 教員の受けとめ方は:「授業内容が難しくて,生徒にはたいへんだった



    5.3 「数学は勉強しないのが普通」がムードに

    教員になると,数学を勉強しないのが普通になる。
    職場の雰囲気がそうであり,そして,「勉強しなくてよい・これをやってればよい」のシステムの中に置かれるからである:学校教員が数学と疎遠でいる構造



    5.4 せいぜい「自己鍛錬しているつもり」

    教員は,数学の授業力の自己鍛錬をしない。
    ただ,数学の授業をする。
    「数学の授業力の自己鍛錬」という目標意識は,最初の頃から,あるいはいつからか,無くなっている。

    また,自己鍛錬も,ある程度きちんと設計していないならば,それは「自己鍛錬しているつもり」にとどまる。



    5.5 独りではだめ──指導者・共同研鑽体制が必要

    数学の授業力は,本当のところ,高度な力である。
    この力をつけるのは,個人の努力の形では不可能。
    すなわち,指導者につく,研究会に参画する,という形が必要である。


    独りでやってできていると思うのは,錯覚である。
    早い時期にひとからガツンとやられることが重要。この経験をもたないと,「モンスター」として生きることになる。