Up 先生ごっこはできるが,授業はできない 作成: 2009-07-24
更新: 2009-07-24


    教員養成課程に入ってきた学生は,授業を<指導法>の展開のようにイメージする。
    教具,板書,課題提示,机間巡視,問答,プリント配布といった指導局面のレイアウトを,授業づくりの意味にする。
    教師のパフォーマンスを演技することを,授業の意味にする。
    これは,先生ごっこである。

    授業は,結果であって,体裁ではない。
    指導法は,所期の結果の実現を考えたときに自ずと導かれてくるところのものである。 指導法は,結果が何であるかに依存する。
    結果が主で,指導法は従である。
    そして,この関係が逆転しているのが,先生ごっこである。

    先生ごっこでは,何が所期の結果があるかという肝心な点が,思考停止されている。
    思考停止になるのは,「教えるべるもの」を自明のものにしているからである。 そして実際は,「教えるべきもの」をもっていない。 ──先生ごっこでは,自分の想う「教えるべるもの」を使うが,これは教えるべきものとは別物である。

    教員養成課程に入ってきた学生は,先生ごっこはできるが,授業はできない。
    先生ごっこでなく本当の授業をしようにも,「教えるべきもの」をもっていない。
    指導法を云々する以前に,「教えるべきものを教える」というときの「教えるべきもの」をもっていないのである。

    こうして,算数・数学科の教員養成では,教えるべきものをもたせること,教えるべきものを主体的に構成できる力をつけることに,指導の大半が費やされることになる。