Up はじめに 作成: 2012-12-25
更新: 2013-01-15


    学校数学は歴史が長い。 そこで,もし学校数学が進歩するものなら,この間ずいぶんと進歩していなければならないはずである。
    事実はそうではない。
    学校数学は進歩するものではないということである。

    ひとは,歴史に「進歩」を見たがる。
    しかし,歴史は,右肩上がりの上昇運動ではない。
    攪乱と均衡回帰の繰り返しである。
    この変動に<意味>や<価値>はない。
    ただ変動すべく変動しているだけである。

    変動しているものは,系である。
    変動は,系の含意である。
    系が現前しているとは,変動しているということである。

    学校数学は,一つの系である。
    それは,変動を含意している。
    この変動は,「進歩」ではない。
    攪乱と均衡回帰の繰り返しが観察されるのみである。

    教員は,授業に対する構えや行動において,学校数学の<攪乱と均衡回帰>を現すものである。
    したがってここにも,「進歩」を読むべきものは無い。
    「是非」を読むべきものは無い。

    本論考は,学校数学の<攪乱と均衡回帰>を,<生きる>系である学校数学の<生きる>形と見なす。
    そして,この<生きる>の構造を捉えようとする。
    即ち,「学校数学の生体構造」を主題として立てるものでである。