Up できる子・できない子 作成: 2014-01-20
更新: 2014-01-29


    学校教員養成系大学・学部の数学教育専攻は,専門数学の授業を設けている。 即ち,専攻学生は,専門数学の授業を受ける。
    小学校教員志望学生に専門数学を課すことについては,つぎの説明がなされる:
      相手が小学生でも,「専門性」がわかっていないと,授業はできない。
      だから,小学校教員養成課程でも,学生はどれかの専攻に属し,専門性をつけることを課される。
      数学教育専攻だと,専門性をつけることとして,専門数学の授業を受けることになる。

    しかし,この説明は,実状とかけ離れたものになる。
    即ち,専門数学の授業では,学生は全員ドロップアウトする。
    このドロップアウト学生が,小学校教員になり,算数の授業をする者になる。
    この説明だと,
      専門数学の授業は,まったく教員養成の役に立っていない
    となり,
      そういうことなら,やめてしまえ
    となるのみである。

    専門数学の授業で学生がドロップアウトするのは,つぎが理由である:
      A. 授業者は,授業ができない。
      B. 学生は,数学の勉強に耐えられない。
    算数を授業する小学校教員は,数学の授業での自分のドロップアウト経験を役立てることができる。 実際,算数の授業を考える上で,これがもっとも直接的な,したがって重宝な,ヒントになる。
    即ち,自分のこの経験を想起するとき,算数の授業が単純には「数学を養う」にはならないことがわかる。
    自分の授業は何をやっていることになるのか?」の自問を立てられる者になる。

    翻って,もっともダメなことは,自分が数学の授業でドロップアウトした者であることを忘れて,自分を「数学を養う」をできる者に見なしてしまうことである。
    このような教員は,必ず「できる/わかる子」「できない/わからない子」を言い出す。
    すなわち,自分の授業に自分の欲する形で応じてくる生徒を「できる/わかる子」にし,そうでない生徒を「できない/わからない子」にする。
    しかしこれは,要するに,授業者のトンチンカンな授業に授業者の欲する形で応じてくる生徒が「できる/わかる子」であり,そうでない生徒が「できない/わからない子」ということである。

    本テクストは,「数学を養う」を,「算数の授業」を外から見る視点として用いている。 「算数の授業」は「数学を養う」でなければならないみたいなことを言うためではない。
    授業者は,「数学を養う」では,トンチンカンな授業をしてよい。 実際,トンチンカンな授業になるのみである。 そのことは,批判されることではない。
    批判されることになるのは,自分のトンチンカンがわからないで,「できる/わかる子」「できない/わからない子」を言い出すことである。 なぜ批判されることになるかというと,「できる/わかる子」になることも「できない/わからない子」になることも,生徒被害だからである。

    「できる/わかる子」「できない/わからない子」を言い出さない教員には,まず出会わない。
    実際,「算数の授業」は,「できる/わかる子」「できない/わからない子」のストーリー仕立てになっている。

    そこでつぎは,「算数の授業」の評価作法である:
      「「できる子・できない子」が立てられることを,容認しない」