Up | はじめに | 作成: 2014-01-19 更新: 2014-02-15 |
算数の授業は,ああであることがアタリマエになっている。 実際,算数の授業があんなふうであることに対し,「算数の授業はなんでああなのか?」という疑問がもたれることはない。 ところで,「算数」とは,「小学生仕様の数学」のことである。 算数を授業するとは,小学生を相手に「数学を養う」をすることである。 ということは,算数の授業がああなのは,《小学生相手の「数学を養う」は,ああだ》ということ? 否。「数学を養う」は,ああはならない。 授業がああだということは,「数学を養う」をしていないということである。 「数学を養う」でないのは,こうなるのみだからである。 このことによいもわるいもない。 「数学を養う」にならないのは,単に,「数学を養う」が無理なことだからである。 算数の授業がああなのは,それが算数の授業が成る形だからである。 算数の授業の自然な形だからである。 ここで,自然であるとは,系の均衡相がこれだということである。 その系は,どんな系? 「均衡」の意味は? 本テクストは,これを論じようとする。 本テクストは,「算数の授業はなんでああなのか」を,理の必然として示そうとする。 この「理」は,生態学/物理学の「理」である。 特に,「算数の授業はなんでああなのか」は,よい・わるいの問題ではない。 用語について 本テクストでは,カギ括弧つきの「算数の授業」を,つぎの特別な意味で用いる:
( 即ち,現前の "算数の授業" ) |