Up 「元気を養う」立論の必要 作成: 2014-01-20
更新: 2014-02-16


    ひとは,自分が生きるにおいて,分野を細かく選択する。
    趣味を選び,部活を選び,履修する科目を選び,専攻を選び,仕事を選び,等々。
    細かく選択するのは,人生の与えられた時間にできることは僅かだからである。
    そしてこの細かい選択は,《どれを選択しても同じ》でなければ,やっていけないものになる。
    いつも「これでいいのか?」になってしまうからだ。
    何でもあり」にしているから,やっていけるのである。

    ここで,《「何でもあり」は,何として何でもありなのか》と考えてみる。
    答えは,「<生きる>を実現するものとして」ということになる:
     《 どれを選択しても,<生きる>を実現する効果においては同じ (「等価」)》

    なぜ,小学校があり,算数の授業があるのか?
    つぎが,答え方にになる:
     「 <生きる>を実現する効果のあることを,やらなきゃならない。
    何でもいいのだが,「小学校」とか「算数の授業」は,これに使える。
    というわけで,子どもを小学校に通わせ,算数の授業を受けさせる。

    本テクストは,「算数の授業」のこの意味を,「数学を養う」に対して,「元気を養う」と言い表すことにする。 ──「体力をつける」とか「○○能力をつける」の類もありだろうが,最も広い意味では,自分では「元気」のことばがしっくりするので,「元気を養う」を使う。

    「何でもあり」「元気」「元気を養う」は,「これはどういうことか?」と考え出したら,哲学になる。
    数学教育では,「形式陶冶論」がこの哲学をやっていることになる。