Up デモクラシーと教育 作成: 2006-01-06
更新: 2006-01-10


    デモクラシーは,個の多様性を前提にして,個の多様性の解発 (release) と活性化を組織/社会の原動力と見る。個は,自立/自律的に行動する主体と見なされる。このように,デモクラシーは組織/社会成員に対する要求水準がひじょうに高いシステムだ。

    したがって,デモクラシー社会では,成員を育成するための教育が重要視される。

      デモクラシーと教育の関係の論考としては,J. Dewey の "Democracy and Education" が屈指の古典。
      私事を話すと,Dewey は教育界では絶対権威みたいに扱われるので,院生のときは臍曲がり的に敬遠していた。
      そののち「デモクラシーと教育」が自分の問題意識になり,その問題意識を Dewey に当て込んで "Democracy and Education" を読んでみた (読んだといっても,斜め読み+引っかかったところをマジに読むのやり方だが)。で,(こんなふうに言うと,何をいまさらと笑われるに決まっているが) これが実におもしろかった。
      Dewey を勉強したことがないので偉そうなことは言えないが,勘として,Dewey に教育法を学ぼうとするのはスタンスとして間違い。実際,Dewey 自身,生涯,教育法でジタバタした。 Dewey に読むべきは,彼の世界観。これが,実にスリリングに巧く語られている。


    デモクラシー社会の成員を育成する教育は,知的資産の伝授の他に,自立/自律的な個の実現が目的になる。

    「自立/自律的な個を実現する教育」は,ゴールもプロセスも,いまの科学や論理にはのらない。科学や論理にのせようとするならば,それは複雑系の極みを相手にしてしまったことになる。
    「自立/自律的な個を実現する教育」の構築は,畢竟,「経験を頼りに,そして勘を働かせて」というものになる。 そこで,歴史的にさまざまな教育方法が提案・提唱されてきた。

    教育方法の提案・提唱では,いわゆる実質陶冶と形式陶冶の間の優勢劣勢の振り子運動が認められる (§ はやりに惑わされない) 。
    しかし,「自立/自律的な個の実現する教育」は,「実質陶冶形式陶冶」である他ない。──例えば,「数学をやるとやらないでは人間形成的に決定的な違いが出る」と自信をもって言える。
    ただし,経験的にそう言えるのであって,「何がどうなって何がどう出てくる」みたいには言えない。

    脳を含めて人間のカラダは,どうしようもなく複雑。教育は「何かを加える」みたいに行うしかないが,「何かが加わった」がそこで起こるわけではない。教育プロセスとカラダの変容は,異次元のできごとなのだ。

      例えば,「総合的な力」は「総合的な学習」でつくのではない。教科専門的な深い学習なしに「総合的な力」はつかない。ただし,これはあくまでも経験に基づく勘。その教科専門的な深い学習がどのように「総合的な力」とつながるかは,説明できない。 ──「説明できない」で終わらせることも,重要な教育的見識。