Up 「本質的に考える」も,学習のたまもの 作成: 2006-04-13
更新: 2006-04-13


    科学の発達を振り返って見ると,「原理·法則の簡約原理·法則の普遍化」が,探究の主要な形の一つになっていることがわかる。すなわち,
      自分がいま知っている原理・法則は,もっとシンプルになり,翻って,これまで別モノと見ていた物事を同類と見ることができるような原理・法則になるのではないか?
    と考え,探究してきた。

    この結果は,木構造的に構成されるカテゴリー/概念による「世界の再構成」であり,論理的な体系(理論)へと結晶する。──「原理·法則の簡約原理·法則の普遍化」の方法が,後に壮大な論理的体系=理論を形成していく (滴る石灰水が巨大な鍾乳石を形成していく感じ)。

    これは,個々の事象が横並びする平板な世界が,構成的立体的に組み上げられていくことを意味する。
    複数のカテゴリーがより上位のカテゴリーに括られるとき,この上位カテゴリーの<内包>は,もとの複数のカテゴリーの「本質」と呼ばれる。


    こうして,「巨視的」「大局的」「鳥瞰」「本質」といった見方が立つようになった。──「巨視的」「大局的」「鳥瞰」「本質」といった見方は,科学の所産であり,文化である。

      註 : 文化人類学は,カテゴリーが文化であることを,それの相対性を明らかにするという方法で示そうとする。


    特に,「巨視的」「大局的」「鳥瞰」「本質」といった見方をする・しないは,気持の問題ではなく,知力の問題である。構造的に考えることのできる知力がつくられていなければ,「巨視的」「大局的」「鳥瞰」「本質」といった見方はできない。そして,この知力は,学習の所産である。

    構造的な考え方を醸成する学習経験は,適切・的確でなければならない。学習経験が十分に適切・的確でなければ,構造的な考え方が不得手となる。
    強調するが,構造的な考え方は自然に身につくのではない。学習という意識的自己鍛錬/修行のたまものである。

    構造的な考え方が不得手な者は,構造的な考え方が不得手であることを自覚できない。したがって,自分では「これでよい」と思って,自覚無しに拙いことをやってしまう
    わたしたちは,このことを心底怖れねばならない。

    結論: (学問ノススメ)
    勉学に ─しかも良質な勉学に─ 努めよ!