Up 「考える」ができるようになること 作成: 2007-06-12
更新: 2007-06-12


    考えようがなければ,考えられない。
    考える力がなければ,考えられない。
    考える気持がないから考えないというのは,場合としてはむしろ少ない。
    考えない理由が気持の問題ではない相手に対し,ただ「考えろ」と言っても無駄である。


    考えるとは,探究的であるより前に,構成的な作業である。
    考えようとする対象の<世界>が,先ず持たれなければならない。
    この<世界>が新しいもの/よく知らないものであれば,「調べる」という作業が必要になる。

    「調べる」には,「暗中模索」もあるし「教科書を読む」もある。
    「暗中模索」のときは,得た情報からの<世界>構築が,たいへんな作業になる。
    「教科書を読む」にしても,内容の確かな理解がなっていなければ,ダメである。


    この作業には,根気と時間を要する。
    学生は,根気と時間を要することがだいたいダメなので,この作業ができない。
    よって,<世界>構築をふっとばして,「考える」をやろうとする。
    このときの「考える」とは,自分の貧しいアタマの中から無理矢理何かをしぼり出すということ。
    どんなものがこのときアウトプットされてくるかは,推して知るべしである。 ──荒唐無稽が出てくる。

    ただし,学生にすれば自分のアタマでしっかり考えているものなので,彼らにとってそれは荒唐無稽ではない。 ひとから荒唐無稽と言われても,なんで荒唐無稽なのかわからない。


    荒唐無稽かどうかは,本来しっかり構築されるべき<世界>に基づいて判断される。 しかし,この<世界>構築をふっとばしているので,荒唐無稽かどうかを判断する基準がないのだ。 そして,判断基準がないところでは,努力したものはつねに正しい。

    学生にとってそれがいいものかどうかに関わるものは,自分ががんばったかどうかだけである。 「自分はがんばった (よってそれは正しい)。なぜダメ出しされる?


    したがって,「考えさせる」を行う授業 ( 課題解決型の授業) では,最初から「ダメ出し」の形で進めるようなやり方は,効果がない。
    「考える」は根気と時間を要する作業だということから,わからせねばならない。 そして,
      「考える」ためには「学ぶ」がなければならない
    ということを,わからせねばならない。