Up 「子どものアタマで授業づくり」に無自覚 作成: 2007-06-15
更新: 2007-08-09


    ひとは,「いまの自分は,成長によって否定されるものである」という意識をもたない。
    この意味で,いまの自分は「最高」であると思っている。


    授業の初心者は,授業づくりの課題に取り組むとき,
      「教えるものを持っている自分が,ひとに教える」
    というスタンスをとる。 ──「自分は教えるものをもっている。これを教えるにはどうやったらよいだろうか?
    そこで,「興味をもたせる」「わかりやすく話す」「教材を工夫する」といった指導法に専ら意識が向く。

    初心者は,授業として教えるものをもっていない。──これが事実。
    教科の主題についての彼らのアタマは,小学校教科なら小学生のアタマと同じ,中学校教科なら中学生のアタマと同じである。 実際,それ以上になるようなことを,してきていない。
    小学生のアタマで小学校教科を教えようとし,中学生のアタマで中学校教科を教えようとする。

    彼らは,自分のアタマの中にあるものが「主題の理解」だと思う。
    自分のアタマの中にあるものとは別に「主題のほんとうの理解」がある,ということがわからない。
    そこで,平気で知らない国の話をする。──知らない国の話をしているとは自分では思っていない。


    初心者の最初の課題は,「自分のアタマの中にあるものとは別に,主題のほんとうの理解というものがある」がわかるようになること。
    しかし,これがほんとうに難しい。

    初心者には,「いまの自分は,成長によって否定されるものである」という意識がない。
      主題の理解は,自分の中で既にできあがっている。
       これ以上,何をしなければならないというのか?
    という思いなので,主題の理解に改めて取り組むということをしない。


    こうして,初心者ほど勉強しない:
      自分はもう出来上がっているから,
       しなくてもたいしたことはない。惰性でだいじょうぶ
    アタマは子どものままだが,年齢が「自分は大人だ」と錯覚させる。
    そして,初心者のまま年齢を重ねる。