Up 「意味・意義の指導」の理由 作成: 2011-03-02
更新: 2011-03-02


    算数・数学科は,数学を教えるためにある。
    数学の一つの主題を教えようとするとき,指導の中心になるものは,主題の意味・意義の指導である。
    意味・意義が,体系を生成するものだからである。
    意味・意義を知らない・わからないままの学習は,続かない。

    意味・意義を対象化する問いは,「なに・なぜ」である。
    よって,数学の授業は,「なに・なぜ」の問いが中心に来る。


    しかし,現実はなかなかこうはならない。
    実際,教師自身,「なに・なぜ」を問われると答えられない。

    「なに・なぜ」を問われると答えられないとは,主題の意味・意義を知らない・わかっていないということである。
    意味・意義を知らない・わかっていない者が,ひとに教えられるのか?
    道理では教えられないはずであるが,現実は,教えている。
    どうしてこのようなことがあり得るのか?
    《「なに・なぜ」を問われると自分は答えられない》の概念が,持たれていないのである。
    実際,算数・数学科が扱う最も基本的な概念であるほど,「なに・なぜ」を問われるのは意外なこととなり,そして答えられない。
     <数>とは何か?」「なぜ<数>が主題になる?
    <対称>とは何か?」「なぜ<対称>が主題になる?
    <変数>とは何か?」「なぜ<変数>が主題になる?
    <接する>とは何か?」「なぜ<接する>が主題になる?

    教職は,《「なに・なぜ」を問われると自分は答えられない》の概念をずっと持たないで過ごせてしまうものなのか?
    存外,過ごせてしまうのである。
    算数・数学科の教科書にしても,「なに・なぜ」の問いで満ちているように想像してしまうが,実際のところ「なに・なぜ」は無い。 専ら「いかに」である。


    教員が「なに・なぜ」を持っていないとき,つぎのタイプの生徒が,学校数学で生き残れる者になる:
       「なに・なぜ」に躓かず,
    「いかに」でやっていける。
    「できる生徒」といっているのは,これである。
    「なに・なぜ」を持たない教員は,「できる生徒」に自分を写していく。

    「できる生徒」は,「なに・なぜ」を持っていない。 「なに・なぜ」が問われると,「できない生徒」と横並びになる。
    「なに・なぜ」の前には,全員「わかっていない生徒」になる。
    生徒について「できる・できない」をよくいうが,所詮,「わかっていない」の中の「できる・できない」である。 これをいうことに,たいした意味はない。


    そこで,数学教員のいちばんの課題は,《「なに・なぜ」を問われると自分は答えられない》の概念をもつ者になり,「なに・なぜ」を問う者になり,そして生徒に「なに・なぜ」を教える者になることである。
    教員は,この課題に取り組みつつ,授業の中で「なに・なぜ」の指導を実行していく。

    この節では,この場合の「なに・なぜ」の指導法を,取り上げる。
    「なに・なぜ」の指導法は,教員が「なに・なぜ」をもっていなければ成り立たない。 よって,形ではパフォーマンスできても,内容ではどうしてもアヤシイことをやってしまうことになる。

    実際,教員は,「なに・なぜ」のとらえでずっと失敗することになる。
    そして,生徒にウソを教えてしまうことになる。
    しかしこれは,しようがない。
    教員は,この経験を積んで成長していくのみである。
    「なに・なぜ」を課題にしていかなければ,「なに・なぜ」は身についていかない。 そして,「なに・なぜ」の指導を実行しなければ,生徒に「わからない生徒」をずっと続けさせることになる。